「面白半分」とは??
- Toru Takahashi
- 2023年5月26日
- 読了時間: 5分
更新日:2023年9月25日

「面白半分」を英訳すると「Just for fun」:「興味本位の気持で」「興味本位の気持ちがあって、真剣さに欠けていること」という意味だそうです。つまり、通常は否定的な意味で用いられる言葉のようです。
しかし、我流では「Half serious」になります。一般的には、この言葉を「悪ふざけ」という意味合いで捉えることが多いかと思います。すなわち「真面目一本槍」の対義語として解釈している場合が多いことです。しかし、その解釈は、ただ底が浅いとだけ思うのです。
敬愛する河合隼雄先生が、京都大学を定年退職される時、その最終講義は生真面目な感じの薄い大らかな内容でした。コンステレーションを解説される時は、長新太作「ブタヤマさんたらブタヤマさん」の童話を具体例にしたり、アカデミック・ジョーク満載の話しぶりで、質の高い「面白半分」を披露されていました。こうした学問上の知見とユーモアある話術が、専門家の存在価値を高めていくと思います。
さて、「四畳半襖の下張」事件ぐらいで、詳しく知ってはいませんが、ずいぶん昔、その名ズバリの「面白半分」という雑誌が刊行されていました。初代編集長は、吉行淳之介。編集長は、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一など、歴史に残るような人気作家たちが順番に務めました。これだけの面々が面白半分に作った雑誌が、ただの悪ふざけをするはずがありません。やはり、作家のプライドを維持すべく Half seriousな「ノリ」で取り組んだに違いありません。
話は逸れますが、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎などは、「第三の新人」と言われた短編小説の雄です。彼等の作品はオリジナリティに富み、当時の文壇に名を轟かせていました。長男の名前を、髙橋淳之介、髙橋周作、髙橋章太郎のどれかにするぞと考える程のファンでした。ちなみに、私の友人は、吉田拓郎にあやかって「拓郎」と名付けましたが。有名人にあやかりたい思いが、そう考えさせるのでしょう。
ただ、それぞれの文学作品を読み耽り、特に夢中にさせたのは、作家相互の交友記でした。文壇で名を馳せつつも、ポン友として互いを揶揄するという人間関係に強く惹かれたものでした。文壇という公的な場とプライベートな場のギャップに境界線を設けない自由な生き方に、詰襟の学生服の少年は、ひたすら憧れました。また、その二重人格(?)的な文人仲間どうしの振る舞いは、不思議そのものでした。
こうしたミーハー的憧れから、将来は作家になって芥川賞を取るぞ」と決心するのは、いつもの癖です。願望は、行動なくしては実現しないなどという生真面目な発想には、ただの一度もなったことはありません。毎日の仕事にも出かけず、文章を書いて飯食っているところだけをつまんで、憧れているだけの、元祖引きこもり希望者だっただけなのです。
しかし、「第三の新人」の作家たちの本を読んで、「面白半分」な生き方を、大学生時代には実現してやろうと思うようになりました。しかし、根が不真面目なので、「半分」という絶妙な状態にはなれず、「現実は、面白さと生真面目さとは融合しない」「面白ければ、それでいい」に留まってしまいました。その10年余り後に出逢う「51%は自分のために」という言葉が示すバランス感覚からは、程遠い状態だったのでした。ただ、朝起きるのが嫌だったという、浅はかな逃げ口上だけの人間でした。
「面白半分」という言葉は、世間ではネガティブな意味で受け取られることが多いようです。しかし、その実践者の多くは、一個の人間としてハイソでスマートな生き方を実現しているようです。私自身にとって、生きている間に実現したい人生目標というべき境地。その実践者が誰かいないか考えてみると、芸能界だと、タモリに赤塚不二夫、所ジョージなどが当てはまると思っています。広く名を知られている彼等の生きる根底には「楽しむことが最優先」という考え方があります。そこが、かっこいい!
私はどんな境地に至って(?)いるかというと「君は、知っていること以外は全部知らない。しかし、私は、知らないこと以外は全部知っているのだ」という、バカボンのパパ状態から抜け出せずにいます。これを「屁理屈」と言わずして、何というのでしょう。これを聞いた人は皆、単純に失笑することになります。
今まで述べてきたことは、どんなふうに受け止められるでしょうか?「面白半分」は、その解釈によって、「Half serious」と考えることができるかと思います。「堅物」とは異なり、ちょっとした遊び心のある人間。素敵だと思いませんか?私は、この年になっても、大きな目標として考えています。実行あるのみです。
真面目とユーモアを兼ね備え、二面的に人を惹きつける人物。個人的には、カウンセラーに求められる人物像だとも考えられます。もし、悩みを聞いてもらう時、堅物だと息苦しく、軽すぎるキャラだと信用し難くなるのは、当然のことです。専門的な理由を言うなら、どちらも三条件の最難関「自己一致」から程遠い状態だからです。かく言う私は、軽すぎるという分類に入ると思います。こういう意味で、カウンセラーは、一生修行が必要だと言えます。
生きにくい世の中になったと、よく言われるようになりました。それは、面白半分が否定されて、「遊び」のない四角四面が重んじられるようになったことと、無縁ではないと考えられます。先輩「帰りに一杯どうだ?」、後輩「それは、仕事ですか?」が、ジョークでなくなっているなら、切ない世になったものですね。
昔は良かったと、年寄りは言います。それを古いと言っても、生きにくさは解消しません。硬軟とり混ぜても許される人間関係こそ、生きやすさを復活させるポイントだと思います。昔の人は、もっと不真面目で、もっと真面目でしたよ。「ハラスメント」という言葉も「癒し」という言葉も、マイナーな存在価値でしかありませんでした。そんな「面白半分」に生きても許される世の中の復活を、切に祈るのみです。
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