笑顔が輝く時は......。
- Toru Takahashi
- 2023年6月23日
- 読了時間: 6分
更新日:2023年6月24日

大学4年生の時、求人を閲覧していて「オリエンタル・ランド」を発見。遊園地の仕事らしく、スルーして次へ。後に知ったのは、この会社が、東京ディズニー・ランドの運営会社だったこと。まあ、その会社に応募する気はなかったものの、今まで、ディズニー・ランド(シー)には、本当に嫌になる程、行きました。
最初に行ったのは、開園前のプレビューでした。スタッフの予行演習の客となって、園内を回るのです。客は、約1000人そこそこ。スリル系は、スペース・マウンテンだけでした。そういう特権に与ったのは、当時の彼女の父親が某大手有名企業の重役だったからです。ちなみに、大相撲の砂被り席や後楽園球場の巨人戦ネット裏にも、ご招待いただきました。その他は、秘密とさせていただきます。ただ、セレブな思いをしたのは確かです。
さて、脱線から戻ります。開園当時、ディズニー・ランドまで行くためには、今のように舞浜駅すぐというわけにはいきませんでした。当時は、埋立地の浦安が住宅地として売り出されたばかりの頃で、その海側にディズニー・ランドだけが、ポツンと建設されました。当時は、国鉄中央線浦安駅から、送迎バスで15分ほどかかりました。
駅を出たバスは、まだ区画整理も見えない道を走ります。舞上げられた土煙の中を走っていくと、前方にシンデレラ城の影がうっすらと見えてきます。そこは、他の建物のない場所とは大きなギャップがある夢の世界でした。その後も何度か、ディズニーバスに乗りました。行くたびに、浦安の街が少しずつ発展していく光景を目にしました。昭和50年代後半のことです。
プレビューでは、客数も限られていましたので、何でも待ち時間ゼロでした。特に気に入ったのが「カリブの海賊」と「ホーンテッド・マンション」でした。その日だけで、合計10回は乗りました。ここを遊園地と呼ぶべきではないと、真面目に思いました。大人も楽しめるレベルに、感激したからです。ここは、日本初の本格的アミューズメント・パークだったのです。
施設はもちろん、スタッフ(キャストと呼称)の日本人離れした所作も驚きの対象でした。まずは、あの笑顔。そして、客への声かけなど、アメリカナイズされていて、こちらがペコペコするぐらいでした。また、灰皿を探している私に気づいたスタッフが、箒と塵取りを手にして「どこに捨てられても、構いませんよ」と声をかけて、足で揉み消すと、一瞬で回収していきました。そして、モップを持った別のスタッフが、きれいに拭き上げたのです。私たちは、唖然とするばかりでした。
キャストの大部分は、時給1200円程度のアルバイトだと聞きました。週5日勤務で、月収はせいぜい20万円程度。道路工事の交通整理の人よりも、収入は少ないはずです。ボーナスなどあり得ません。しかし、キャストの人気は高く応募者の途切れはないとか。屋外施設ゆえ、天候の影響をモロに受けて、かなり大変な肉体労働です。ディズニーが好きだけでは、到底務まりません。その秘密は「キャスト」という呼び名にあるようです。
お客さんは「ゲスト」と呼ばれています。広大なディズニー・リゾートは舞台で、そこでハッピーを届けるのが「キャスト」です。従業員やスタッフと呼ばないのは、夢と魔法の世界を創る演者の1人だという発想だそうです。ゲストにハッピーな心を届け、ゲストからハッピーをいただくという、別世界的なコンセプトが根付いているそうです。
敷地内には、ディズニー・ユニバーシティと呼ばれる研修施設があり、キャストの在り方を徹底的に学びます。きっと、就活にも多大なメリットがあることでしょう。それぞれの配置場所に独自のコスチュームを身にまとって、キャストの役割を楽しむ。ここが、魅力なのだそうです。バイトでこき使われるとは、全く反対のレディネスで臨めるでしょう。
学生時代、デートで10回(タダ券で)、サークル仲間と5回ぐらい、東京に遊びにきた弟や妹と3回、従兄弟と2回ほど行きました。そして就職後は、修学旅行で3回、家族旅行で2回行きました。記憶にはありませんが、それ以外でも親類や知人と行った覚えが何回かあり(チケット代を払ってもらっている)、最低30回は行きました。
後半は、アトラクションを楽しむより、園内の細かい造形を見て楽しみました。また、ディズニー・シー開園後は、数々の本格的ショーを楽しみました。アンティークな建物だけでも、かなりの「こだわり」が感じられ、驚き、感嘆したものです。また、家族5人で行った時、子どもたちの笑顔が弾けた光景は、今も忘れません。なお、修学旅行の時は、携帯電話がなかったので、主に救護室近辺に待機していました。
ディズニー・リゾートには、もう行くこともないでしょう。しかし、そこでキャストとして過酷な肉体労働を楽しんでいる若者たちのような姿を、ふるさと秋田で見られたらいいなと思います。突き詰めると、たくさんの花が散りばめられたような、若者の働く喜びに満ちた「笑顔」が見たいのです。
秋田名物は、残念ながら愛想のない「いらっしゃいませえ〜」だと思います。別の言い方をすれば「シャイ」なのでしょうが、それが通用する時代は、既に遥か昔のことなのです。私も同じ秋田人として、自分を客観視すると「無愛想」が服を着て歩いています。ふるさと再生には、箱物や道路拡幅ではなく、生活を楽しんでいる表現としての「キャスト並の笑顔」が必要だと、ごく普通に考えています。
東日本大地震の年、中学3年生の学年主任になりました。その5月に予定されていた東京方面への修学旅行は、東北新幹線が復旧未定になったため、北海道へ変更されました。学年外から配置された私の目には、意気消沈する生徒たちの姿がありました。学級担任のスタッフたちも、同様な雰囲気でした。
年度初めのスタッフ会議の席で、自腹で買ってきた本をスタッフに配りました。
福島文ニ郎著『9割がバイトでも、最高のスタッフに育つ、ディズニーの教え方』
これをバイブルとして1年を乗り切ろうと提案し、内容を解説して、学年経営の共通理解を図りました。反応は、人それぞれでした。そして、「学校は生徒が来てこそ学校だ」と宣言しました。最初の学年集会があり、こんな珍妙な呼びかけをしました。
「修学旅行でディズニーに行けず、本当に残念でした。そこで皆さんに提案します。ディズニーに行けないのなら、学校をディズニー・ランドにしていく3年生になってやろう!」
生徒たちのキョトンとした顔を、今も鮮明に覚えています。この学年こそ、不登校ゼロで、卒業式に全員が出席した「奇跡の学年」だったのです。私自身、教員として最高のハッピーをもらうことができました。
実際は、綺麗ごとを遥かに上回る問題の対応に忙殺される日々の連続で、教師生活で一番苦労した1年間でした。しかし、思い出は美化されるものという解釈を優先して、数々のわだかまりは、水に流したいと思います。ああ、楽しかったなあ。笑顔で終わりたいと思います。
参考文献 組織のリーダーのお勧め

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