- Toru Takahashi
- 2024年2月28日
- 読了時間: 5分
更新日:2024年7月17日

何か特別な強迫観念でもあるのでしょうか。この年になっても、目薬を点せません。我ながら呆れますが、できないものはできないとしか言いようがありません。もう胃カメラなど、何の抵抗もなく受け入れるのに、目薬だけできないのです。幼い頃のトラウマでもあるのかどうか、親に尋ねてもわからないの一点張り。しかし、何か原因があるものと思われます。
自分自身の記憶は、プールに裸眼で入った時のことです。当時は、泳ぐと言えば海。水中メガネは欠かせませんでした。当時、プール用のゴーグルなどはなく、確か体育の時間だったと思いますが、結構遠い町営のプールまで歩いて水泳の授業が、2回ほどあったかと思います。
プールには、結構多くの塩素が入れられていて、ツーンと鼻に付く独特の異臭がしました。一斉バタ足練習後、自由に泳いでいいとなって泳ぎの苦手な友人を水中に引きずり込もうと、いたずら心で、いきなり潜水開始して、目を開けた瞬間、不快極まりなく感じ、鼻からもプールの水が入って、嫌な味がしました。危うく溺れそうになり、古式水泳のプライドは地に堕ちてしまいました。
泳ぎは専ら広々とした日本海で、水中メガネで目と鼻を塞いで、かなり深い海底まで潜水したり、立ち泳ぎで長時間浮かんでいたりするのが、夏の日常でした。ですから、デッカい風呂桶の閉塞感と塩素水の不快さが嫌で、授業でもない限り、プールなぞ行くことはありませんでした。
さて、小学生の頃、頻繁に「ものもらい」で目を腫らしていました。目薬が嫌でたまらなくて、何度トライしても「命中」せず。恥ずかしながら、母親の膝に寝っころがり、点してらったものです。この頃は、娘に点してもらっているという甘ったれを笑ってください。
何で目薬如きに恐怖感を抱くのでしょうか。目は一番の急所だと思い込んでいるためなのでしょうか。子どもの時のプール体験が、心的外傷になっているのか、系統的脱感作により気にしなくなるものなのか。もう治らなくてもいいやと、開き直っていますが、現在お悩みの方がいらっしゃったなら、ご相談ください。系統的脱感作法で対処いたします。
単純に「苦手」ということならば、放っておくのが一番でしょう。しかし、「自己臭」と称して、自分の体臭に関して気になる度合いがエスカレートして、人に会う抵抗感が増して、引きこもり状態になったりするなら、放っておいてはならないと思います。では、もうひとつの「できないこと」について話しましょう。
靴紐を正しく結べないのです。これは、不器用な証拠だと思います。しかし、スーツでばっちり決めている状態に、妙な円形の靴紐だと意気消沈してしまいます。やり方を何度も教えてもらっても、翌日にはフォーマットしてしまうのです。鉛筆の持ち方もいい加減です。いい大人になってからバレてしまうと、恥ずかしいものです。躾よろしく何事も手際がいい人が、羨ましい限りです。
できないことは、よくないことというマイナス思考は、劣等感コンプレックスと言う場合もあり、自己否定感を引き起こします。しかし、それを生きるエネルギーとして、得意なことに注力して成果を挙げている人も多いようです。そこを避けて通る人は、逆に大成しないようにも思います。まあ、得意分野を活かせるのならこんないいことはありませんが。
他愛もない目薬の話から、話題がエスカレートしてしまいました。これを「針小棒大」「大言壮語」と言います。ただ、できないことを補う現象は、損ばかりではありません。
目は、近視、老眼、乱視、斜視など、好きでそうなったわけでもなく、斜視は魚の目のように、両目で直視するには、外向きの目を正面に引き寄せなくてはならず、睨め付けていると誤解までされてしまいます。遠近両用メガネにしたら、階段を踏み外しました。そのためか、何となく「見る行為」を諦めているようです。
そうすると、他の感覚が発達するようで、人のヒソヒソ話の中身がわかったり、絶対音感で周波数ピタリで歌うことができるようになりました。つまり、相補性の原理で、聴覚が発達したようです。しかし、人の話を聞かないなど、態度の悪さも発達しました。
更に嗅覚に至っては、人並外れた力を発揮するようになりました。かつては、セブンスター1日2箱で40本のチェーン・スモーカーでした。やめて12年、食事は、味覚と嗅覚の組み合わせで、美味しさを感じることがわかりました。ただ、副産物として匂いを感じる力が、極めて突出します。
家の外に出ると、タバコの煙の匂いを感じます。「1箱20本で500円以上もする麻薬並みの物によくも手を出せるものだ」と睨むと、100m以上も向こうに、喫煙者発見!相当な嗅覚になりました。隣にいる家族は、全く気づいていません。「嗅覚オリンピック」でもあれば、是非参加してみたいものです。
何かができない時、それを嘆くとともに、そのハンデを補う得意技を見つけてください。極端な例を言えば、歴史に残る天才作曲家たちなど、特別な能力を発揮する人たちは、発達障害に代表されるハンデを背負っています。
私は、天才ではありませんが、IQが標準未満で、教員として生きてきました。それを気にしたりしたこともありません。できないと明らかになっていることが、ある意味で恩恵をもたらすことを、知っているからです。自分の優れた点は、意外なところで見つけることができる。そう信じてみませんか?
マイナス志向をプラス志向に変えてしまうこと。価値ある行為だと、思っています。できないとイジケるよりも、それを受け入れるキャパシティを持ちたいものですね