- Toru Takahashi
- 2023年9月16日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年8月19日

後に、ただの思い込みだったと、周囲を落胆させることになりますが、幼い頃の限られた期間、私は「神童」と呼ばれていました。まだ幼稚園児の頃、何の拍子か車の名前をほぼ全て言えたのです。道行く自動車を指差して、尋ねると、瞬時に名前やグレード、排気量などを話しまくったそうです。
今になってみると、アスペルガー症候群的な性質のように思えますが、全く自閉的ではない上に、心の病とは無縁でした。ただ、年上のお兄さんたちと、怯むことなく真正面から取っ組み合ったことはたくさんあり、大人になってからも、とにかく上司に噛み付いてきました。ですから、障がいとは言えず、ただ興味をもった事に関しては、特異なまでの暗記力を発揮できたようです。
終戦後、日本は航空機の製造を禁止されました。零戦をはじめとして、日本の優秀なエンジニアたちは、戦闘機の製造に関して、非常に優れた能力を発揮していて、GHQから目を付けられる存在だったとか。後に、プロペラ機であるYS11が製造されたものの、ジェット機に関しては、先日、三菱重工が撤退して、国産ジェット機の未来は、無くなりました。
ヒコーキ作りのエンジニアたちは、自然に自動車製造の分野に流れ込みました。そんなオーソリティたちが、日本車に卓越した航空機のスキルを注ぎ込み、日本が自動車大国になったのです。国産車は、海外の著名なレースで大活躍しました。そして、日本車ここにありと、世界の認める存在に駆け上がりました。
例えば「日野コンテッサ」という乗用車をご存知でしょうか?私の住む田舎は、オート三輪が主流でした。よく曲がり角で、ひっくり返っていました。実に不安定な車でした。
ですから乗用車の実物を見る機会は、あまりなかったと思います。そのため、どこでどうして覚えたか不明です。こうした国産車を載せている本は、近くの本屋さんで立ち読みぐらいでしか、知識を得る方法は、なかったはずです。国産車一覧なんていう本もなかったはずです。
まあ、一種の「オタク」だったんだとしていますが、クルマの名前はリア部分にひらがなで書かれてはいなくて、英語等の外国語が表示されています。まだ、小学校にも行っていない子どもが、「ダットサン ブルーバード 1600cc SSS」なんて言うのですから、大人は大喜びだったはずです。当時の私に会って、観察してみたいという欲求が、今もあります。可愛いというより、ちょっと気味悪い子どもだと思うことでしょう。
高校生の頃は、自転車にはないスピード感を味わいたくて、学校には内緒で「原付」免許を取りました。バイクは、友人のお兄さんからタダ同然で譲ってもらい、意気揚々と片道約15kmを裏バイク通学していました。当然、学校近くの草むらに放り投げ、涼しい顔をして「おはようございます!」と、校内に入っていきました。当時、弱い者いじめと告げ口(チクリ)などは、「恥」とされていましたので、バレませんでした。佳き時代でした。
当時は、ルールやマナー意識に個人差があって最近問題視されている「あおり運転」も、よくされたものです。ダンプの横を同じスピードで走っていたら、横からあおられ、側溝に落ちたこともありました。この時、立場の違いでさげすむようなことはしないという信条をもつようになりました。「目には目を」は、品性を欠く考え方だと思います。
免許を取ったのは、大学3年生の春休みで帰省している時です。なんと信号が、ひとつしかない路上の卒業検定に楽々合格。筆記試験及び免許状交付は、東京の鮫洲免許センターでと、自分に都合よく動きました。しかし、東京は、電車やバスで網羅されていましたから、2回程、首都高と東名をレンタカーで走ったくらいで、クルマには縁なく過ごしました。スクーターには、乗っていましたが。
就職してから、クルマを買って乗るようになりました。新車で乗ったのは、5台ほどです。不躾ながら新車のみの「髙橋亨の愛車遍歴」をご紹介しましょう。
1 ホンダ インテグラ(平成元年〜)
新潟県の教員最終年に、ローンで購入。ヘッドライトが横に長ーい黒のセダン。ホンダ独自のALB(アンチ・ロック・ブレーキ)が付いていたのですが、凍結路では、よく回転していました。
遠目に「ゴキブリみたい」という、生徒の意見が多数ありました。車高が低く、腰に良くない以外、ホンダのVTECエンジンは、軽快に走りました。新潟ナンバーのままだったので、税金を納めるのを忘れると、村上市の税務署まで往復で300kmを何回か。いいクルマでしたが、このあたりから「物欲」が騒ぎ出すことになります。
2 VOLVO 850Rエステート(平成8年〜)
13年乗りました。色は、フェラーリの炎の赤でエンジンはポルシェ製。ステーションワゴンの王様とまで呼ばれていました。その最高グレードです。常識はずれの、大ローンを組んでしまいました。
忘れもしない平成8年7月1日。2月に納車された同型車(色はグレー、ノンターボ)が、交差点で赤信号を無視した80km/hのクルマに突っ込まれて前席2つのエアバッグが作動する事故に遭遇。車軸が曲がって廃車。そこで、ヤケになって、最高グレードを購入したのでした。
シートは、アルカンターラの豪華設備。気に入って乗り続けたせいで、未だに、ナビを操作する習慣なし。ナビには今も興味なしです。ドッカン・ターボが格別でした。
しかし、新車からの走行距離が、50,000kmまでトラブル続きでした。最初にエアコンのガスが、全部抜けました。何度も入院。でも、愛車でした。老衰につき廃車になりました。保証期間を過ぎると車検代+修理代が、跳ね上がったこともありましたが、北欧の良さを満喫できました。
3 日産 LEAF Gクラス(平成26年〜)
52歳で中途退職。家の残債を全部払ったらクルマを1台買える金額が残りました。それまで、4km/ℓのオンボロBMWで、ハイオクガソリンに苦労していたので、今度は国産のハイブリッド車にしようと思い、あちこち見て回りました。
当時は、これは良いという車が見つからず、遊び半分で電気自動車にしました。当時の通勤距離往復30kmは、家の電気で賄えて、しかも料金にさしたる変化なし。超エコなクルマでしたが、問題は走行可能距離に尽きました。
カタログ値では、満充電で248kmとありましたが、一時停止なし、エアコンオフで、ノロいスピードで走って出る非現実的な値なのでした。特に冬場は、往復80km強を家族5人で走るのに、ハラハラドキドキする始末。
55万ぐらいの補助金によって、4年縛りがあり買い替え不可。つまり、別のクルマに乗り換えができないのです。これには、苦しみました。買った翌年から、魅力あるクルマが次々と発売されたからです。ミニの店にふらりと入ったところ、ディーゼル・エンジン車がありました。BMWにもVOLVOにもありました。
このクルマとの正式離婚の日が、待ち遠しくてたまりませんでした。下取りに出しました。あれだけ高い値段だったのに、4年落ちで、なんと50万。ゴーンという人物を恨みました。
4 RANGE ROVER EVOQUE(平成30年〜)
平成24年の発売以来、ほとんどモデルチェンジしてこないまま、生産終了が決められて、発売されたのが、超お買い得の、ラストエディションとも言える「フリースタイル」という名のディーゼル・エンジン車です。計算したところでは、約150万円のオプションを付けて、本来の車両本体価格という気前の良さ。ドンキ並みだと感心しました。
日本には、100台の割り当てがあり、色は白と黒のみ。内装は黒のみだったので、仕方なく嫌いな白を注文しました。それでも期待して待っていると、3ヶ月後にイギリスより船で到着。親切な担当の方からこんな写真が!

包帯でグルグル巻きで輸入され、その丁寧さに感動しました。納車後は、用もないのに走らせたりして結局、2年で3万kmを超えました。
この車種は、本県ではあまり見かけませんが首都圏では大人気だったそうです。ディーゼルというと、路線バスとか宅配便のトラックが放つガリガリ音を想像されると思いますが、思ったより静かでした。ガソリン・エンジンよりうるさいですが。
そんなことよりも、低速トルクが強くて、急坂も唸ることなく上がっていきます。また、360度カメラや下り坂自動制御も素晴らしく、特に気に入ったのは、サイドブレーキがアクセルを踏むと解除できるという点です。
大きく見えると思いますが、全幅190cmは慣れにくいものの、全長430cmで、国産の5ナンバー並みのコンパクトなボディです。知らない人ばかりで、自慢にもなりません。しかし間違いなくいいクルマです。
5 RANGE ROVER EVOQE(令和2年〜)
フルモデルチェンジした同モデルの、ファースト・エディションです。2ℓディーゼル、発売記念につき、オプションてんこ盛り。色は、ノリータ・グレーという特別色。特筆すべきは対向車の形を切り取って照射するLEDライトです。モデルチェンジして、同じグレードの仙台ナンバーの白を見たことがありますが、限定車につき、丸かぶりは3年間なしです。
調子に乗って、長々と私ごとを書き綴ってきました。そろそろ終わりにします。BS日テレで毎週土曜日午後9時に放映される「おぎやはぎの愛車遍歴」の最後のセリフ「クルマとは?」に答えてエンディングとしましょう。
「私に取ってクルマとは?
「物欲である」
髙橋 亨
お後がよろしいようで。誠に失礼しました。