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海でのセーリング

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​⭐️noteに続きを載せました。どうぞ、お読みください!​ 雅号は「宇想月」です。

更新日:2024年8月19日


 後に、ただの思い込みだったと、周囲を落胆させることになりますが、幼い頃の限られた期間、私は「神童」と呼ばれていました。まだ幼稚園児の頃、何の拍子か車の名前をほぼ全て言えたのです。道行く自動車を指差して、尋ねると、瞬時に名前やグレード、排気量などを話しまくったそうです。


 今になってみると、アスペルガー症候群的な性質のように思えますが、全く自閉的ではない上に、心の病とは無縁でした。ただ、年上のお兄さんたちと、怯むことなく真正面から取っ組み合ったことはたくさんあり、大人になってからも、とにかく上司に噛み付いてきました。ですから、障がいとは言えず、ただ興味をもった事に関しては、特異なまでの暗記力を発揮できたようです。


 終戦後、日本は航空機の製造を禁止されました。零戦をはじめとして、日本の優秀なエンジニアたちは、戦闘機の製造に関して、非常に優れた能力を発揮していて、GHQから目を付けられる存在だったとか。後に、プロペラ機であるYS11が製造されたものの、ジェット機に関しては、先日、三菱重工が撤退して、国産ジェット機の未来は、無くなりました。


 ヒコーキ作りのエンジニアたちは、自然に自動車製造の分野に流れ込みました。そんなオーソリティたちが、日本車に卓越した航空機のスキルを注ぎ込み、日本が自動車大国になったのです。国産車は、海外の著名なレースで大活躍しました。そして、日本車ここにありと、世界の認める存在に駆け上がりました。


 例えば「日野コンテッサ」という乗用車をご存知でしょうか?私の住む田舎は、オート三輪が主流でした。よく曲がり角で、ひっくり返っていました。実に不安定な車でした。


 ですから乗用車の実物を見る機会は、あまりなかったと思います。そのため、どこでどうして覚えたか不明です。こうした国産車を載せている本は、近くの本屋さんで立ち読みぐらいでしか、知識を得る方法は、なかったはずです。国産車一覧なんていう本もなかったはずです。


 まあ、一種の「オタク」だったんだとしていますが、クルマの名前はリア部分にひらがなで書かれてはいなくて、英語等の外国語が表示されています。まだ、小学校にも行っていない子どもが、「ダットサン ブルーバード 1600cc SSS」なんて言うのですから、大人は大喜びだったはずです。当時の私に会って、観察してみたいという欲求が、今もあります。可愛いというより、ちょっと気味悪い子どもだと思うことでしょう。


 高校生の頃は、自転車にはないスピード感を味わいたくて、学校には内緒で「原付」免許を取りました。バイクは、友人のお兄さんからタダ同然で譲ってもらい、意気揚々と片道約15kmを裏バイク通学していました。当然、学校近くの草むらに放り投げ、涼しい顔をして「おはようございます!」と、校内に入っていきました。当時、弱い者いじめと告げ口(チクリ)などは、「恥」とされていましたので、バレませんでした。佳き時代でした。


 当時は、ルールやマナー意識に個人差があって最近問題視されている「あおり運転」も、よくされたものです。ダンプの横を同じスピードで走っていたら、横からあおられ、側溝に落ちたこともありました。この時、立場の違いでさげすむようなことはしないという信条をもつようになりました。「目には目を」は、品性を欠く考え方だと思います。


 免許を取ったのは、大学3年生の春休みで帰省している時です。なんと信号が、ひとつしかない路上の卒業検定に楽々合格。筆記試験及び免許状交付は、東京の鮫洲免許センターでと、自分に都合よく動きました。しかし、東京は、電車やバスで網羅されていましたから、2回程、首都高と東名をレンタカーで走ったくらいで、クルマには縁なく過ごしました。スクーターには、乗っていましたが。


 就職してから、クルマを買って乗るようになりました。新車で乗ったのは、5台ほどです。不躾ながら新車のみの「髙橋亨の愛車遍歴」をご紹介しましょう。


1 ホンダ インテグラ(平成元年〜)

 

 新潟県の教員最終年に、ローンで購入。ヘッドライトが横に長ーい黒のセダン。ホンダ独自のALB(アンチ・ロック・ブレーキ)が付いていたのですが、凍結路では、よく回転していました。


 遠目に「ゴキブリみたい」という、生徒の意見が多数ありました。車高が低く、腰に良くない以外、ホンダのVTECエンジンは、軽快に走りました。新潟ナンバーのままだったので、税金を納めるのを忘れると、村上市の税務署まで往復で300kmを何回か。いいクルマでしたが、このあたりから「物欲」が騒ぎ出すことになります。


2 VOLVO 850Rエステート(平成8年〜)

 

 13年乗りました。色は、フェラーリの炎の赤でエンジンはポルシェ製。ステーションワゴンの王様とまで呼ばれていました。その最高グレードです。常識はずれの、大ローンを組んでしまいました。

 

 忘れもしない平成8年7月1日。2月に納車された同型車(色はグレー、ノンターボ)が、交差点で赤信号を無視した80km/hのクルマに突っ込まれて前席2つのエアバッグが作動する事故に遭遇。車軸が曲がって廃車。そこで、ヤケになって、最高グレードを購入したのでした。

 

 シートは、アルカンターラの豪華設備。気に入って乗り続けたせいで、未だに、ナビを操作する習慣なし。ナビには今も興味なしです。ドッカン・ターボが格別でした。


 しかし、新車からの走行距離が、50,000kmまでトラブル続きでした。最初にエアコンのガスが、全部抜けました。何度も入院。でも、愛車でした。老衰につき廃車になりました。保証期間を過ぎると車検代+修理代が、跳ね上がったこともありましたが、北欧の良さを満喫できました。


3 日産 LEAF Gクラス(平成26年〜)


 52歳で中途退職。家の残債を全部払ったらクルマを1台買える金額が残りました。それまで、4km/ℓのオンボロBMWで、ハイオクガソリンに苦労していたので、今度は国産のハイブリッド車にしようと思い、あちこち見て回りました。


 当時は、これは良いという車が見つからず、遊び半分で電気自動車にしました。当時の通勤距離往復30kmは、家の電気で賄えて、しかも料金にさしたる変化なし。超エコなクルマでしたが、問題は走行可能距離に尽きました。


 カタログ値では、満充電で248kmとありましたが、一時停止なし、エアコンオフで、ノロいスピードで走って出る非現実的な値なのでした。特に冬場は、往復80km強を家族5人で走るのに、ハラハラドキドキする始末。


 55万ぐらいの補助金によって、4年縛りがあり買い替え不可。つまり、別のクルマに乗り換えができないのです。これには、苦しみました。買った翌年から、魅力あるクルマが次々と発売されたからです。ミニの店にふらりと入ったところ、ディーゼル・エンジン車がありました。BMWにもVOLVOにもありました。


 このクルマとの正式離婚の日が、待ち遠しくてたまりませんでした。下取りに出しました。あれだけ高い値段だったのに、4年落ちで、なんと50万。ゴーンという人物を恨みました。


4 RANGE ROVER EVOQUE(平成30年〜)


 平成24年の発売以来、ほとんどモデルチェンジしてこないまま、生産終了が決められて、発売されたのが、超お買い得の、ラストエディションとも言える「フリースタイル」という名のディーゼル・エンジン車です。計算したところでは、約150万円のオプションを付けて、本来の車両本体価格という気前の良さ。ドンキ並みだと感心しました。


 日本には、100台の割り当てがあり、色は白と黒のみ。内装は黒のみだったので、仕方なく嫌いな白を注文しました。それでも期待して待っていると、3ヶ月後にイギリスより船で到着。親切な担当の方からこんな写真が!

包帯でグルグル巻きで輸入され、その丁寧さに感動しました。納車後は、用もないのに走らせたりして結局、2年で3万kmを超えました。


 この車種は、本県ではあまり見かけませんが首都圏では大人気だったそうです。ディーゼルというと、路線バスとか宅配便のトラックが放つガリガリ音を想像されると思いますが、思ったより静かでした。ガソリン・エンジンよりうるさいですが。


 そんなことよりも、低速トルクが強くて、急坂も唸ることなく上がっていきます。また、360度カメラや下り坂自動制御も素晴らしく、特に気に入ったのは、サイドブレーキがアクセルを踏むと解除できるという点です。


 大きく見えると思いますが、全幅190cmは慣れにくいものの、全長430cmで、国産の5ナンバー並みのコンパクトなボディです。知らない人ばかりで、自慢にもなりません。しかし間違いなくいいクルマです。


5 RANGE ROVER EVOQE(令和2年〜)


 フルモデルチェンジした同モデルの、ファースト・エディションです。2ℓディーゼル、発売記念につき、オプションてんこ盛り。色は、ノリータ・グレーという特別色。特筆すべきは対向車の形を切り取って照射するLEDライトです。モデルチェンジして、同じグレードの仙台ナンバーの白を見たことがありますが、限定車につき、丸かぶりは3年間なしです。


 調子に乗って、長々と私ごとを書き綴ってきました。そろそろ終わりにします。BS日テレで毎週土曜日午後9時に放映される「おぎやはぎの愛車遍歴」の最後のセリフ「クルマとは?」に答えてエンディングとしましょう。


「私に取ってクルマとは?


「物欲である」

         髙橋 亨

 

お後がよろしいようで。誠に失礼しました。

 



 最近、YouTubeで「33歳一人旅」という番組を、気に入って観ています。アゴヒゲ男が、本当に自力のみでヨーロッパ各国を巡り、観光の合間に現地の酒を片っ端から飲みまくるというのが、主な内容です。羨ましい限りです。


 宿も交通手段もスマホを駆使して、街歩きや観光は、Google Mapsを使って、ドンピシャに目的地に到着。私には、未来の旅が現実化したように見えました。そこに弥次喜多道中などはあり得ず、スムーズ過ぎるほど、旅は次々と進んでいます。感嘆しつつも、日本はネット発展途上国だと再確認した次第です。日本は、周回遅れのIT環境だとは、知りませんでした。


 それに加えて現地の物価の高さには驚くばかりでした。1人でビールやワインを飲んで、現地のB級グルメを食べて、軽く5000円ぐらい支払っていました。それに、ビジネス級リーズナブルホテルが1泊2万円もしていて、貧乏旅行主義者としては、受け入れがたい現実を見せつけられました。欧米の物価高騰は、日本の比ではないことがわかりました。


 それはさておき、このシリーズも3話目になりました。後は、ネタがありません。しかし、この第3話こそが、貧乏海外旅行の真骨頂と言えます。上の写真は、誰でも知っている「コロッセオ」です。つまり、今回の行き先は、イタリアのローマということになります。


 まずは、旅の支度。パスポート、トラベラーズチェック(今もあるのかな?)までは、誰もが同じ。そこからが私流。日頃からキープしていた、ボロトレーナー、ボロシャツ、ボロパンツにボロ靴下など、現地で捨ててもいい物を、確か修学旅行の業者からもらった捨ててもいいボストン・バッグに詰め込んだら、荷物の準備は終わりです。


 閑散期の2月でしたが、地中海性気候を信じて、防寒着はマウンテン・パーカー(ポケットいっぱいあって便利)を1着のみ。替えのジーンズ1本。そして『るるぶ』から切り取ったローマの地図1枚とパスポートとチケットを持ったら、準備完了です。お土産も買わない、写真も撮らない、できるだけ観光地には行かないという私流「三無主義」を貫き、帰国した時は手ぶらという世にも珍妙なる結末を迎えることになります。


 商品名が「フライ&ステイ ローマ1週間」という7万円の格安ツアーでした。ローマ滞在中に散々飲み食いをして、使ったの金額は、だいたい2万円ほどでした。結局は、成田空港往復など日本国内の交通費等も含めて、合計10万円以内におさまるという、貧乏人にとっては理想的な海外旅行プランでした。


 今回は、大学院の同期のY君との2人旅でした。いい加減な格好の私たちを乗せた、アリタリア航空ローマ行きは飛び立ちました。大学院を終える直前の1995年2月のことでした。前年の10月にイギリスに行って、その味を占めての旅でした。当初は、中国返還前の香港に行くはずでしたが、ローマ7万円という安さにノックアウトされたのでした。


 機内は、エコノミーでもドリンク・フリー。しかし、愛想の悪いスッチーさんは、オーダーに知らぬふり。そこで、カートが通り過ぎる瞬間、後方からこっそり手を伸ばして、まずはワインを2本ゲットしました。機内では、「旅の恥はかき捨て」の典型と化していました。ワインは安物のキャップ式。旅の安全を祈り、ボトルで乾杯をしました。


 フライ&ステイとは、文字通り往復の飛行機代にホテル代オンリーのプランです。空港からホテルまでの送迎はあるものの、それ以外はお構いなし。まあ、泊まったホテルでは、オマケ的に朝にパンとコーヒーを出してくれて、それ以外は、ガイドなしのオールフリー。どこに行くかというルート決めや食事も自分で何とかするという、気まま旅でした。


 ホテルは、ローマの北東部の閑静な住宅地にある可もなく不可もないレベルの安ホテル。ただ、吹き抜けの天井が異様に高く、日光はトップライトからしか入らない、窓なしの変わった部屋でした。話し声がやたらと響くのには、閉口しましたが、掃除の行き届いた綺麗な部屋でした。


 我々の主目的は、現地の食べ物と飲み物。有名な場所へ行きたいという願望は、限りなくゼロに近い状態でした。イタリアで食べ物と言えば、パスタにピザ。飲み物は、ワインということになりますね。トマトが抜群に美味しかったことは、今も鮮烈に覚えています。


 来る前に覚えてきたイタリア語は、ごくごく少なく、ボンジョルノ、グラッチェ、シー、そして一番使ったのが、「デュエ〜プレファボーレ」という一文でした。「〜」には、オーダーする飲食物を入れることになります。


そこに「ビルラ=ビール」や「カプチーノ」「エスプレッソ」などを入れると「2杯ください」となるわけです。これで、食事は大丈夫でした。注文内容に「プリーズ」=「プレファボーレ」を付ければいいのです。


 現地の水道水は、普通の日本人は飲まないようにと言われています。そのため、ミネラルウォーターを買うことになります。ただし、現地の水が日本と反対の「硬水」なので、酒ならぬ水がキツくて飲めない経験をします。まあアルプスの湧水は大丈夫なのでしょうが、外国に来たことを真に実感する瞬間です。特に炭酸水など、キツ過ぎて飲めたものではありません。


 そこで、イタリア語では「アクア・ミネラーレ・ノン・ギャス」、すなわち「炭酸の入っていないミネラルウォーターをください」という言い回しが、欠かせませんでした。カルシウムなどが多くて、沸騰した水をティーバッグに注いでも、なかなか紅茶になってくれません。


 なるほど、スコットランドのアフタヌーンティーが美味しくなかったのは、そういうことかと合点がいきました。お茶の芳香と繊細な味を楽しむべく、少し冷ました湯で淹れる日本茶の世界を知る私たちと、水そのものに対する考え方の根本が違うのでした。日本人の繊細な感覚を、改めて考えさせられました。


 実際の料理において、イギリスでは、あまりいい思いをしませんでしたが、ローマでは「うまい!」の連続でした。どうやら、ラテン系の人たちとは、日本人と味覚で強い結びつきがあるように思われます。生まれて初めて、スパゲッティに感動したのが、ここローマでした。そう思わせる原因は、材料でもなく、スパイスでもなく、流れる空気そのものだという哲学的自論を披露して、はばかりません。ローマと独特の空気が、調味料のひとつなのです。


 唯一、口に合わなかったのが、映画「ローマの休日」の真似をして、スペイン広場で舐めた極限的に甘いジェラートでした。30男2人で何やっているのでしょうか。しかし、現在は、こうしたヘップバーンごっこも、トレヴィの泉のコイン投げ入れと同様に、禁止されているとか。今の世の中、きまりがうるさくて嫌になりますね。


 さて、ロンドンのあちこちに「パブ」があるように、ローマには「バール」がたくさんあり通い詰めました。カフェであり、立ち飲み屋であり、コンビニでもある庶民的な店です。昼から飲んでいるオジさんが数人いて、機嫌良くビールを奢ってもらってグラッチェグラッチェ!イタリア語はリスニング不可能、話せる単語も5つぐらい。それでも、ノンバーバル・コミュニケーションで何とかなるものです。


 イタリアは、フレンドリーな人の多い国だと思います。これは、今も変わりないでしょう。ミラノもフィレンツェもベネチアも知りませんが、ローマはブラブラ歩き世界一だと、お勧めします。治安もスリや引ったくりぐらいで、良い方だと思いますので、ご安心を。


 まだまだ、面白いエピソードがありますが、読了時間6分になりました。また何かの機会にお話したいと思います。さて、私たちが海外旅行に行く主目的は一体何だと思われますか?


 どこへ行こうと同じなのですが、実は母国である日本の素晴らしさを、心の底から実感するためなのです。帰国した時の感覚にハマってしまうと、もう中毒症状から逃れられません。


 私の予想だと、今年中はコロナもおとなしくしていると思います。さあ、フライ&ステイのチャンス到来です。わざわざ仲を悪くするようなカップルは避けて、男1〜2人のアンファッショナブルな旅へどうぞ!人生観が変わるかもしれませんよ。また、コミュニケーション力を身に付ける絶好の機会です。それでは、気を付けていってらっしゃいませ!


 


 


 






 



 


 


 ここは、どこでしょう?一発で当てられたら凄いと思います。大学院2年生の「海外特別研究」で、参加費25万円程の授業の目的地です。やはり1週間でしたが、時差を約8時間程遡ることになるため、飛行機内は、いきなりブラインドを閉じて、真っ昼間から夕食、就寝というモードに変わり、面食らいました。目的地が、正午の場合、日本標準時は午後8時になります。


 答えは、イギリスです。ロンドンにも1泊して、ピカデリー・サーカスなど行ってみましたが、「エバー・グリーン」と呼ばれる年中美しい芝生の公園が、印象に残った程度です。主たる目的地は、スコットランドで、上の写真は、エジンバラ城から見た街並みだそうです。


 その他、グラスゴーにも行きました。スコットランドの市街地だけに行きましたが、一言で表現すると「綺麗」という言葉がピッタリ。失礼ながら、ロンドンに行ったら、雑多で空気が良くないような雰囲気を感じたぐらいです。


 何が綺麗かというと、街そのものとしか答えられません。また、心が浄化される場所と表現しても大げさだとは思いません。大相撲の表彰式で、小泉元総理のストレートな発言「感動した!」が、最も適切な表現かもしれません。


 エジンバラの旧市街に入って、デコボコの石畳足を踏み入れた瞬間、そこは「ハリーポッター」の世界。一同、一時無言で歩きました。何か言うと、どこか陳腐な感じに響くからです。誰かが大きくため息をつきました。ここだけ時間が停止したような感覚は、エジンバラ旧市街が特別でした。長い歴史を有する街並みに、こんなに清潔感を感じるとは。絶賛するしかありませんでした。


 社交場のような所で、アフタヌーンティーをいただきました。お菓子は、どれも甘ったるくてダメでした。スコーンとの初対面でしたが、何も付けずにそのまま食べました。ボソボソした歯触りで、美味しいとは思いませんでした。紅茶も然り。日本茶を飲んでいる舌には、あまりにも雑な淹れ方で、美味しくなかったのです。


 リンボウ先生こと、書誌学者・国文学者の林望さんは、大のイギリス好きで有名です。『イギリスはおいしい』や『イギリスは愉快だ』など、イギリスに関するエッセイ集等の書籍は多く、この旅行後、片っ端から読み漁りました。そして、イギリス料理のマズさを楽しむという境地を知りました。マズさを楽しむなんて、おわかりでしょうか。


 旅行の楽しみ方のひとつが、本場の味覚を味わうことです。しかし、これは海外では通用しないことが多いのも現実です。日本で供される外国料理は、日本人に合わせた味付けをしていることを、旅先で思い知った経験があります。


 初めて行った韓国では、観光客向け以外の焼肉屋での「何だコリャ!?」経験をしました。そして、中国では、本場の中華料理のほぼ全てに入っていた八角の風味に負けて、結局お粥しか食べられなくなった経験など、現地人が日常食する味覚に耐えられなかったことがありました。まあ、日本で外国からの観光客が、納豆などの発酵食品を嫌がるのと、ほぼ同じと捉えていただきたいと思います。


 イギリス料理の評判は、前から知っていました。食材の栄養素をとことん奪い取る調理法など、失礼ながら、イギリス料理には、歴史と伝統あるマズくさせる調味料が使われているのかと思いました。ここで、印象に残ったエピソードを2つほど紹介します。


 まずは、朝食で食べるトーストが、極薄なことです。スーパー等で見る最も薄い食パンは、8枚切りでしょうか。それとは比較にならない程の、極薄状態で、ガチガチに硬い代物です。日本人の主食は米で、西欧諸国はパンというウソを信じている人はいないと思います。たとえ主食ではなくても、あんまりだと思いました。


 なぜこんなに薄いのかという疑問は、すぐに晴れました。トーストは、独立した食べ物にあらず。その上にいろいろな食材を乗せるという「台」と認識されている事実を知りました。それを知らずに、バターだのジャムだのを塗り付けて食べていた我々にとって、カルチャー・ショックそのものでした。しかし、食パンとして食べた極薄のトーストは、後に好物になりました。


 次は、イギリス名物料理である「フィッシュ&チップス」です。旅の最終夜、全員会食が設けられ、大挙して某イギリス料理レストランを訪れました。メニュー表はなく、事前に全員分がオーダーされていたようです。


 テーブルには、調味料入れが2つ。食塩と酢でした。飲み物は各自オーダーせよと言われていましたが、食事後にパブに行くつもりだったので、「ウォーター プリーズ」でした。


 出てきた料理は、魚の切り身の揚げ物と厚切りのフライドポテトの大盛り。ウエイターさんに何の魚かと尋ねたら「Cod」と返答。鱈のようでした。どうやって揚げたのか、油がよほど低温だったのか、油まみれの魚には塩コショウすらしていなくて、無味。滲み出た油は、ポテトまで及んで歯応えを失っていました。


 食べる気ゼロでも、少しはということで、置かれていた食塩と酢をかけたら、もうアウトでした。何かのソースでもあれば、何とかなったのにと、ただ解散の指示を待っていました。見渡すと、みんな同じような表情でした。このエピソードは、後々の話題になりました。


 そこは、日本で言われている「旨み」の感覚が、欠如した世界でした。先のリンボウ先生によると、これを口にした時、イギリスに来た実感をもつと言っていました。「そんな物の、どこがいいんだ」と言われた経験はあるでしょうか。他の人にとってはマズかろうが、思い出の味は、誰にでもあるでしょう。


 さて、この旅行の最後には、一大珍事が起こりました。帰路の英国航空のミスにより、ダブル・ブッキング(二重予約)が発生したのです。そのため、もう1機を出さないといけなくなりました。行きの飛行機は、全員がエコノミー・クラスでしたが、帰りの飛行機のスペシャル席が、ガラ空きだったのです。


 おそらく、アルファベット順にスペシャル席が割り当てられたようです。阿部さん、江藤さんは、何とファースト・クラス。私は、姓名ともにTで、ビジネス・クラス。同級生のYさんは、哀れエコノミー・クラスになりました。生まれて初めて、カースト制度を経験しました。


 座席は、寝椅子にまでリクライニング。肘掛けのスチュワーデスマークを押すと「髙橋様、御用を承ります」「ウイスキーをロックで!」「どちらの銘柄になさいますか」と、頼み放題でした。成田空港までの15時間など、あっという間に過ぎました。


 到着して降りる時も、クラス順でした。ファーストから降りてきた面々に声をかけても、半覚醒状態で無反応。夢のような思いをしたそうです。次が、私を含めたビジネス・クラス。後で調べたら、エコノミー30万ぐらいのツアーをビジネスに変えると、最低でも90万に跳ね上がると聞きました。超ラッキーだったと、言うだけですね。


 こうして、2回目の「海外特別研究」の授業は、つつがなく終わりました。最後に言い忘れていたエピソードを披露して終わります。


 成田空港から15時間をかけて延々と飛行して、まもなくヒースロー空港に着陸しようとした英国航空機。富士急ハイランドのジェットコースター並みの急角度で突入!かなりビビりました。降り口から一番近いトイレに直行。そこは、まるでガリバーのトイレでした。身長が179cmの私が辛うじて届く小便器の高さ。何とか放物線を描いて無事終了。お子様用小便器には、結構長い行列ができました。これが、イギリスで最初に味わった屈辱。いや、カルチャー・ショックでした。The end.



 


 

 

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学校心理士

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髙  橋     

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