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海でのセーリング

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​⭐️noteに続きを載せました。どうぞ、お読みください!​ 雅号は「宇想月」です。

更新日:3月27日

篆刻作品をいくつか。
篆刻作品をいくつか。

 カバー画像には、ハンコ1個にその印影を載せて見ました。中国浙江省杭州郊外にある知る人ぞ知る「西冷印社」で買った石に、現地で注文して彫ってもらった物です。さて、この石の値段はおいくらでしょうか。


 石にハンコを彫るのを「篆刻」と言います。書道の作品の名前の下または、紙の右上に押すアレです。西冷印社は、篆刻の学術団体だそうで、篆刻のグッズも販売していました。義理で行った隣町の日中友好訪問の楽しみは、ここへの訪問だけでした。


 中国でお土産を買うつもりはなく、空港の免税店でハワイのマカデミアン・ナッツのチョコを買うぐらいでした。まともに買ったのは、ハンコだけでした。その値段は、何と5万円!それでも、まだ安い方でした。


 篆刻の石材は、蝋石、青田石など、ピンからキリまであります。私が買ったのは「鶏血石」でした。読んで字の如く、血のような色が珍重され、赤い部分の割合により値段が異なってきます。最高級の品は、石全体が血の色で真っ赤でした。買い物は、これにて終了です。


 リクエストで「亨印」と彫ってもらいましたが、やめておけばよかったと後悔しました。だいたい篆書にすらなっておらず、鶏血石そのものすら、怪しく感じました。店員さんの「トウキョウ デハ 10マンエンスルヨ」に、騙されたのかもしれません。


 篆刻にハマったのは、2校目在職中、美術担当の先輩から手ほどきを受けたのがきっかけです。彼は、書道の「師範」の免状を持っているので、嘘偽りなく教えてくれた上に、作品の評価もしてもらいました。その後、秋田県に戻り1993年には「選択教科」を命じられました。


 美術担当は本格的な油彩を教え、国語担当としては、楽しくてやりがいのある篆刻を教えることにしました。意外にウケが良く、希望者が絶えることなく、10年やりました。消しゴムではなく、石を彫るのは集中力が必要で、また独特の楽しさもあって、騒がしくなることもありませんでした。


 名作から迷作まで、生徒の若い感性が、篆刻という古めかしい作業で表現されました。作った作品に私が、なかなかOKを出さないのにも奮起したようです。思えば、参加生徒一人一人と、ノンバーバルなやり取りを、楽しんでいた私がいました。


 まず石1個と篆刻刀、耐水紙ヤスリ等の入った「篆刻セット」を購入し、それに2、3個の石を買い足して、授業スタート。まずは、陰刻(文字を彫る)、陽刻(文字の周りを彫る)で名前を彫ってもらい、後は自由作品としました。1年35週で、4個ぐらいのスローペース。ゆっくりとした濃密な時間が流れます。まともな作品に仕上げるためには、何回もの修正が必要になります。その覚悟がある人だけが、篆刻を選びます。


 生徒と一緒に、私もいくつか制作しました。上の写真に示すように、稚拙な作品ばかりです。それでも、自分なりに楽しんで取り組んでいるのは感じていただけると思います。自分の名前以外は「凡」「杜撰」「破天荒」など、適当に思いつくままでした。


 厳密に言うならば、篆書には「大篆」と「小篆」があって、区別されるべきではありますが我流ゆえ、篆書辞典に載せられている好みに合う方を選びました。また、線の太さ等々の流儀があるそうですが、自分の好み優先として、専門家からみれば、チグハグな作品になったというのが、正直なところです。


 書の落款として使われることが一般的かと思いますが、篆刻のみ趣味にしている人は、少ないとおもいます。硬い石を彫ってハンコを作る作業は、私にとって気分転換的要素を重んじています。辛い作業ではなく、クルマを運転する感覚に近いです。共通点は、ある程度は神経を使い、危険や失敗を回避するところが、覚醒を呼び込むというところでしょうか。


 ハンコ社会は終わりを告げてるようです。しかし、ハンコ文化は健在です。消しゴムを使ったハンコが、流行っているそうですが、篆刻も趣味の産物です。墨色の書に朱色のアクセントは、なかなか良い景色です。


 今同じことをやれと言われても、目が言うことを聞いてくれません。外向きの斜視である両目を注視させるのも難しく、乱視も進行しているようです。そのため、とても手を出す気にはなりません。また、ルール無視の我流を改めてすることもないでしょう。


 選択教科は、今は無きに等しくなりました。それは、ゆとり教育の終焉っとも重なります。あれだけうるさく言われてきた「選択履修幅の拡大」も手のひらを返したように沈黙して、狭義の学力向上が口うるさく言われるようになったのです。同じ口でよくも言えたものです。

 

 篆刻の他、選択教科では、演劇と称して口パクによるオペラ座の怪人やコントなど、ふざけ半分のこともしてきました。楽しい思いをさせていただきました。あの頃は良かったなんて、年寄りの戯言に過ぎませんね。


 ハンコ彫りは楽しいですよ。興味のある方は是非一度お試しあれ。


 


 「もう❤️部長さんったら....。」というフレーズが、今もくっきりと頭に残っています。思春期の男の子は、誰もが通り過ぎる通過儀礼でした。田舎の若者が今は死語となっている「エロ本」を手に入れるのは、至難の業でした。


 エロティシズムは、写真からではなく、主に活字から入ってきました。特に、川上宗薫とか宇能鴻一郎の文章表現は、興奮するに値するものでした。ストレートな表現を極力避けて、比喩表現の巧みな文章は、未体験の少年には、刺激が強いものでした。


 さて、昭和54年に「わいせつ文書販売」の有罪判決が出されました。四畳半襖の下張事件と呼ばれています。翌年、上告は棄却されて有罪は確定。雑誌『面白半分』の社長に15万円、編集長の野坂昭如氏には10万円の罰金が課せられました。


判決文要旨(Wikipediaより)

一、文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」といえるか否かを決すべきである。


二、男女の性的交渉の情景を扇情的筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めており、その構成や展開、さらには文芸的、思想的価値などを考慮に容れても、主として読者の好色的興味にうつたえるものと認められる本件「四畳半襖の下張」は、刑法一七五条にいう「猥褻ノ文書」にあたる。


 当時18歳だった私は、あまり興味をもたずにいて、吉行淳之介氏や井上ひさし氏など、有名な作家たちが証人になった以外、あまり覚えていません。それよりも、フィクションを読む方が、はるかに面白かったからです。


 問題視されたこの作品は、大正6年発行で、著者は、かの有名な永井荷風だそうです。大昔の発禁本です。それを昭和の後期になって、面白半分に世に広めたことを罰するという愚行でした。YouTubeで朗読を聞きましたが、口語ではない言い回しに、独特のリズム感がある良い作品だと思いました。


 今は、発禁本ではなく、誰でも自由に読むことができます。判決は不当です。当時、過去の発禁本を軽々しく取り上げたことに怒りを覚えた人でもいたのでしょう。表現の自由という点において憲法違反は、明らかですが、こんな人たちがいるからこそ、少子高齢化が進んだなどと、論理の飛躍した発信をしたくなります。


 人間には、それぞれの欲望の実現に向けて生きています。物欲、名誉欲等々は露骨ですが、性欲をむやみに隠蔽するのは、日本が文化的後進国だからだと思います。同じニュアンスの発言をしている有名人もいますが、断じて「不倫は文化」なんかではありません。


 シルビア・クリステルの「エマニエル夫人」という映画は、衝撃的でしたが、日本用にカットされている映像が多く、肝心要が見られずに残念でした。外国では、例のモザイクこそ、おかしな性的強調の小細工とされています。そうしなければ崩れ去る日本の風紀なんて、恥ずべきことだと思います。


 では「わいせつ」とは、日本ではどう定義されているのでしょうか。個人の行動としては、「自由」の定義に似ていると思います。すなわち「人に一切迷惑をかけないこと」が前提になります。そう定義するならば、不快な思いをさせるだけでもダメだということになります。


 しかし、わいせつな事柄を、ただ思い考えるならば、それは自由です。しかし、何にしろ行動に出したら、アウト!性犯罪は繰り返すのだそうで、中毒性のある犯罪です。ヨーロッパでは、その前科がある人にGPS発信機を付けさせるとまで、言われているそうです。


 今は、YouTubeで動画データを通販で安価に購入して、エロビデオが見られるという、いい時代になっています。川上宗薫さんのような名人芸がなくなったのは、残念なことです。


 ストーリー性が欠けていたら、エロティシズムは成立しません。試しに例の通販で何本か見たところ、美人さんが出演しているのはいいとしても、展開がワンパターンで、すぐに飽きてしまいました。


 江戸時代には春画」と言われる、性行為の絵がありました。その時代は男女とも大らかに楽しむ対象だったとか。この日本にも、良い時代があったようです。今は、そうあらねばならないと思います。また、描写力抜群の官能小説が読みたいです。


 今の若い世代の方々。このような考え方をどう思いますか。それとは関係ないようですが、少子化をどうしていけばいいのでしょうか。未来は、大らかな性欲によって明るくなると、勝手な思いを抱いているのですが。


 



 




 走って逃げていく私と、途中で追っかけるのを諦めた担任の先生。小学校3年生の頃だったと記憶しています。何か悪さをしたのではないと、まずは自己弁護を。実は、算数の九九の口頭試験から逃げたのです。


 文学だの文章だの、言語による表現が好きなのと国語教師であったことは、全く別世界のことなのです。大学で教職課程を履修登録する際に、音楽や美術など「技能教科」以外の、国語や英語、社会科等々で、まずは理系科目を削除しました。九九から逃げたことが、そうさせたと言っても過言ではありません。


 結局は、国語と英語の二択になり、消去法で国語になったと言うわけです。しかし、その選択が、かなり趣味を蝕んだとも言えます。国語でも文学などの文章表現に接しますが、あくまでも学びの視点を与えるスキルであり、自分の心の財産形成とは異なります。


 そんなしがらみのない時代。お金の関係上、主に文庫本を読み漁りました。高校生になっても、卒業後の進路なんて何も考えていませんでした。そんな私でも、モラトリアム(就職の執行猶予)に対する憧れが増していきました。


 そのきっかけが、曽野綾子著『太郎物語』との出会いでした。この著者のお子さんである太郎君の生き様をモチーフにした小説でした。都会っ子らしい悩み方をはじめとした、心のもちように惹かれました。大学進学についても、結局は、評判の良い都内の大学ではなく、名古屋の大学を選びました。


 彼は、心の居場所にこだわったようです。また、自分の興味・関心に合う文化人類学を学ぶ決心をしたのでした。当時の私になどもち得なかった考え方に、影響されました。そういう意味では、私にとって人生の一冊と言えます。


 小説の「話者」は、母だと思いました。フィクションですので、曽野綾子さん本人ではありません。彼を手のひらで遊ばせているグレートマザー的な存在です。私小説ではありません。


 太郎は、なんと名古屋市内にマンションを買ってもらいました。その金額が半端でないことに、太郎は大きく心を揺さぶられます。親から突き放されたという感覚の必要性を、象徴するエピソードだと思いました。高校を出たばかりの若者に財産が与えられる。突飛な親の振る舞いです。


 高校を出たら、こんな気持ちになれるか。当時の私には、考えることもできませんでした。それでも行きたい大学について考え始めるきっかけには、なりました。学部については、先程述べた消去法で考えましたが、太郎が目指す境地には程遠く、文系のどれかというところまでが、せいぜいでした。


 この本には、真なる大学生活の楽しみ方が盛り込まれています。何度も読み返して、就職してからは、読んで後悔の念を抱いたものです。それは、30歳を超えて教職大学院生の時に再現することができました。学ぶ楽しさや喜びを知るプロセスがわかりました。


 今もなお、人の長話が何より嫌いです。情報の受け手から、積極的な情報処理や解釈を加える営みが学問です。そこには、「発見」があります。私は、統計処理したデータが語り出すというオカルト的経験をしました。


 太郎は、神田の古本街で、欲しかった文化人類学の書籍を、大枚叩いて手に入れました。自分の論理を正当化するため、先行研究から引用して、持論を組み立てるのも、自分の味方づくりのようで楽しむことができます。太郎は、どんなことを手に入れるのでしょうか。


 この作品は、澱んでいた高校生だった私の心に、爽やかな新風を吹き込んでくれました。何度読み返しても、後味スッキリの一冊です。昭和の雰囲気があちこちに感じるものの、令和の高校生や大学生などにお勧めしたいです。特にZ世代と呼ばれている世代に、読んでもらいたいです。


 電車の中でもカフェの店内や回転寿司の店内でも、大多数がスマホを眺めていますが、ごくわずかながら、本屋さんのカバーを付けた文庫本を読んでいる人を見かけます。スマホに「文明」を感じ、文庫本に「文化」を感じるのは、私だけでしょうか。昔ながらの平々凡々な行為に、新鮮さを感じるのです。


 昔の本の虫からの戯言でした。なお、今回紹介した『太郎物語』には、高校編もあります。中学生の皆さんに、お勧めします。なお、主人公のモデルとなった三浦太郎氏は、実際に文化人類学の大学教授として、現在もご活躍です。


 


 


 

015-0864

秋田県由利本荘市大鍬町 117-2

 

学校心理士

​健康経営アドバイザー

髙  橋     

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