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海でのセーリング

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​⭐️noteに続きを載せました。どうぞ、お読みください!​ 雅号は「宇想月」です。


 このエッセイは、私の個人的な経験に基づき書きました。ウソっぽく感じることもあるかと思いますが、ウソも誇張もないことを、初めに記しておきたいと思います。世が世ならば、私に決心していたならば、実現していたかもしれなかったことを、いくつか話そうと思います。

 

 なお、私が東京に住んでいたのは、今は昔。

1980年〜1985年ですので、もう既に「時効」は成立したことと受け止めていただきたいと思います。


 1980年3月。受けた大学は、全部不合格になりました。当時の不合格「電報」を2つ。


小樽商科大学「ジゴクザカ コロゲオチル」

京都教育大学「フシミノ サケ ノメズ」

 

 大学の立地を的確に表現している「秀作」と言えると思います。大学合格者を実名で新聞報道していた、大らかな時代でした。


 ついでに名門「駿台予備学校」まで落ちて、0勝9敗という結果でした。やむなく、早稲田予備校に入学(?)することになりました。友人は、隣の一橋学院(予備校)に入りました。


 高田馬場の駅は、残酷そのものでした。改札を出て右に行くのが、早稲田大学生、左に行くのが予備校生の集団でした。東向きだからか、大学生たちは真正面から日差しを受け、輝いて見えました。予備校生たちは、神田川を横目に俯いて歩いていました。この対照的な風景が、目に焼き付いています。


 当時、杉並区の荻窪辺りにアパートを借りていました。予備校に行く気もなくなり、「勉強は自分でするもんだ」という勝手な理由を付けて、朝10時開店のパチンコ屋に並んでいました。いざ開店!並んでいた客が、店内になだれ込み、お目当ての台を探します。


 当時、親指を使う「手打ち」は廃れ、オートに変わった頃です。天釘と称して、玉が最初に跳ね返る釘によって出る台が決まります。自称パチプロのおじさんに教わって、天釘を見定めて、勝負スタート。これを毎日繰り返すと、台の見極めに熟達して、負けない状態に至るのでした。まあ、セミプロもどきというところ。


 ただし、通称「釘師」たちの絶妙なるテクニックによりある程度パチンコ玉が当たると、釘がずれて全く出なくなります。ですから、いわゆる「引き時」が肝心です。通常、¥5,000ぐらいからスタートして、¥8,000あたりでさっさと終わりにします。浮いた¥3,000で飲み食いして元本は確実に残すという具合でした。


 そのパチンコ屋で知り合ったのだったか、看板のない怪しい飲み屋で出会ったのか、記憶は定かではありませんが、気がついてみると、私は19歳にして、その近辺を仕切っている任侠組織の親分さんの家に居候していました。「客分」とか何とか言われていて、チンピラ紛いのことは、全く強要されませんでした。


 当時、恐怖心などは欠落していました。親分さんは、背中に極彩色の刺青をしていて、いかにもという人物でしたが、私には妙に優しく、奥さんの手料理を常食として食うにも困らずに安楽な生活をしていました。もう時効でしょうから明かしますが、かなり山奥まで出かけて、チャカ(拳銃)を撃つ練習もしました。あの、腕ごとちぎり取られるような衝撃は、忘れられません。そして、ドス(短刀)で人を刺す方法、ショバ代等々のシノギなど、求めずとも業界の基礎基本を学んでいきました。


 私の他にチンピラさんたちは大勢いましたが親分さんにとって、私は特別扱いの対象として息子のように可愛がってもらいました。私自身は、これで自分の未来が決まったと、勝手に思っていました。親分さんは、見た目は、怖い雰囲気でしたが、私を優遇してくれるところからもうチンピラに「内定」しているものと、勝手に解釈していました。


 初夏の夜、家族の一員のごとく飲み食いしていました。親分が時計を見て「8時か」とつぶやいて、テレビをつけました。その日は、金曜日、選んだ局はTBSでした。リアルタイムで「3年B組 金八先生」の放送を見ました。いつもは、飲んで食って饒舌にしゃべる親分が、なぜか無言でドラマに見入っています。当然、私も同じようにしていました。


 番組終了。突然、親分が口を開きました。そして、意外な一言を口にしました。

「トオル。お前、ガッコのセンセーになりな」

 私は、思わず「組は?」と問いました。ボスは、一度だけ首を横に振りました。仕草で伝えたいことを察するのが、この世界の掟のようなものなのです。無言は、貫かれました。


 その後、居候は終了。酷く怒鳴られそうだったのでお宅にお邪魔することも、二度とありませんでした。浪人生活は終わり、学力を大幅に下げた私は、不本意ながらも大学生になりました。引越しもしました。以降、その組織に関係する人には、一度も会っていません。


 親分の言った通り、卒業後、私は教員になっていました。新採用から5年ほどは、「何でこんなことをしているのだろう」と自問することが度々ありました。何か特殊な「おまじない」をかけられた気分は、今も消え去ることなく続いています。親分のおかげでもなく、親分のせいでもなく、自分で決めたことなのに。


 ド田舎から出て来たばかり少年が、意外な人に未来を方向づけられるという、不思議な経験をしました。採用試験の面接で「出会いを大切にしていきたい」と話した理由は、実を言うとこんな経験があったからなのです。



更新日:2023年9月25日


 「面白半分」を英訳すると「Just for fun」:「興味本位の気持で」「興味本位の気持ちがあって、真剣さに欠けていること」という意味だそうです。つまり、通常は否定的な意味で用いられる言葉のようです。


 しかし、我流では「Half serious」になります。一般的には、この言葉を「悪ふざけ」という意味合いで捉えることが多いかと思います。すなわち「真面目一本槍」の対義語として解釈している場合が多いことです。しかし、その解釈は、ただ底が浅いとだけ思うのです。


 敬愛する河合隼雄先生が、京都大学を定年退職される時、その最終講義は生真面目な感じの薄い大らかな内容でした。コンステレーションを解説される時は、長新太作「ブタヤマさんたらブタヤマさん」の童話を具体例にしたり、アカデミック・ジョーク満載の話しぶりで、質の高い「面白半分」を披露されていました。こうした学問上の知見とユーモアある話術が、専門家の存在価値を高めていくと思います。


 さて、「四畳半襖の下張」事件ぐらいで、詳しく知ってはいませんが、ずいぶん昔、その名ズバリの「面白半分」という雑誌が刊行されていました。初代編集長は、吉行淳之介。編集長は、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一など、歴史に残るような人気作家たちが順番に務めました。これだけの面々が面白半分に作った雑誌が、ただの悪ふざけをするはずがありません。やはり、作家のプライドを維持すべく Half seriousな「ノリ」で取り組んだに違いありません。


 話は逸れますが、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎などは、「第三の新人」と言われた短編小説の雄です。彼等の作品はオリジナリティに富み、当時の文壇に名を轟かせていました。長男の名前を、髙橋淳之介、髙橋周作、髙橋章太郎のどれかにするぞと考える程のファンでした。ちなみに、私の友人は、吉田拓郎にあやかって「拓郎」と名付けましたが。有名人にあやかりたい思いが、そう考えさせるのでしょう。


 ただ、それぞれの文学作品を読み耽り、特に夢中にさせたのは、作家相互の交友記でした。文壇で名を馳せつつも、ポン友として互いを揶揄するという人間関係に強く惹かれたものでした。文壇という公的な場とプライベートな場のギャップに境界線を設けない自由な生き方に、詰襟の学生服の少年は、ひたすら憧れました。また、その二重人格(?)的な文人仲間どうしの振る舞いは、不思議そのものでした。


 こうしたミーハー的憧れから、将来は作家になって芥川賞を取るぞ」と決心するのは、いつもの癖です。願望は、行動なくしては実現しないなどという生真面目な発想には、ただの一度もなったことはありません。毎日の仕事にも出かけず、文章を書いて飯食っているところだけをつまんで、憧れているだけの、元祖引きこもり希望者だっただけなのです。


 しかし、「第三の新人」の作家たちの本を読んで、「面白半分」な生き方を、大学生時代には実現してやろうと思うようになりました。しかし、根が不真面目なので、「半分」という絶妙な状態にはなれず、「現実は、面白さと生真面目さとは融合しない」「面白ければ、それでいい」に留まってしまいました。その10年余り後に出逢う「51%は自分のために」という言葉が示すバランス感覚からは、程遠い状態だったのでした。ただ、朝起きるのが嫌だったという、浅はかな逃げ口上だけの人間でした。


 「面白半分」という言葉は、世間ではネガティブな意味で受け取られることが多いようです。しかし、その実践者の多くは、一個の人間としてハイソでスマートな生き方を実現しているようです。私自身にとって、生きている間に実現したい人生目標というべき境地。その実践者が誰かいないか考えてみると、芸能界だと、タモリに赤塚不二夫、所ジョージなどが当てはまると思っています。広く名を知られている彼等の生きる根底には「楽しむことが最優先」という考え方があります。そこが、かっこいい!


 私はどんな境地に至って(?)いるかというと「君は、知っていること以外は全部知らない。しかし、私は、知らないこと以外は全部知っているのだ」という、バカボンのパパ状態から抜け出せずにいます。これを「屁理屈」と言わずして、何というのでしょう。これを聞いた人は皆、単純に失笑することになります。


 今まで述べてきたことは、どんなふうに受け止められるでしょうか?「面白半分」は、その解釈によって、「Half serious」と考えることができるかと思います。「堅物」とは異なり、ちょっとした遊び心のある人間。素敵だと思いませんか?私は、この年になっても、大きな目標として考えています。実行あるのみです。


 真面目とユーモアを兼ね備え、二面的に人を惹きつける人物。個人的には、カウンセラーに求められる人物像だとも考えられます。もし、悩みを聞いてもらう時、堅物だと息苦しく、軽すぎるキャラだと信用し難くなるのは、当然のことです。専門的な理由を言うなら、どちらも三条件の最難関「自己一致」から程遠い状態だからです。かく言う私は、軽すぎるという分類に入ると思います。こういう意味で、カウンセラーは、一生修行が必要だと言えます。


 生きにくい世の中になったと、よく言われるようになりました。それは、面白半分が否定されて、「遊び」のない四角四面が重んじられるようになったことと、無縁ではないと考えられます。先輩「帰りに一杯どうだ?」、後輩「それは、仕事ですか?」が、ジョークでなくなっているなら、切ない世になったものですね。


 昔は良かったと、年寄りは言います。それを古いと言っても、生きにくさは解消しません。硬軟とり混ぜても許される人間関係こそ、生きやすさを復活させるポイントだと思います。昔の人は、もっと不真面目で、もっと真面目でしたよ。「ハラスメント」という言葉も「癒し」という言葉も、マイナーな存在価値でしかありませんでした。そんな「面白半分」に生きても許される世の中の復活を、切に祈るのみです。



 


 かつて、こんな自論「携帯電話などネズミたちの作戦で着けられた猫の鈴だ。いつでもどこでも居場所を知られ、束縛される道具だ」を恥ずかしげもなく掲げていました。それを頑固に

貫き、修学旅行や高校入試の引率などの緊急の場面は、その時だけチャージするプリペイド携帯で済ましていました。つまり、普段は「不携帯」で過ごしていたことになります。

 

 47歳の頃でした。必要に迫られて、やむなく携帯することになりました。機種などを良く見もせず、早く買って帰ろうと思い、盛んにPRしている奇妙な携帯を迷わず購入。それが、当時の日本で販売開始されたiPhone 初期型でした。画面の右上に3Gという意味不明の表示あり。説明書はなくて、その上に、係の人の長話に嫌気がさして、とりあえず通話方法だけ聞いて帰りました。楽しくない買い物でした。

 

 買ってからも、通話とメール以外の機能は使わず、しばしばフリーズし、再起動することも多く、通話以外は全く無関心。普通の携帯(今のガラケー)は、小さく折りたためる上に、軽いので、このパソコンもどきの携帯が、様々な意味で邪魔な存在となりました。これこそ「猫に小判」だと、自虐的な心境にまで陥りました。


 それなら、普通の携帯にすればいいのでしょうが、機種変更する気にもなれませんでした。結局は、iPhone しか操作できなくなり、バージョンも、4S、5、6s、そして10sと上げて現在に至っています。もう、かつての持論は消え去り、麻雀ゲーム(無料)、メール、ホームページのブログやTwitterなどで事務所のPR、寝床でYouTube、Amazonで買い物などフル活用しています。これさえあれば、デジカメもビデオカメラもヘッドフォン音楽プレーヤーも要りません。これほど多機能の機械は、他にはありません。万能と言っても良いかと思います。


 スティーブ・ジョブズという早逝した天才のことを知ったのは、ずいぶん年数が過ぎてからでした。そして、彼が興した会社がAppleであることも知り、元はと言えばMacintoshというパソコンの会社だということも、後々の知ることになります。ビートルズのレコード・レーベルが、Macintoshというオーディオ・メーカーと手を組んで、携帯電話を発売したといったトンマな解釈をしていたのでした。


 画面が美しいので衝動買いした、2012年製の「MacBook air」を、ろくに使わずに持っていました。パソコン業界では、とっくにクラシックカーの機種です。しかし、こんな古いパソコンでも、まだ使えます。パソコンの頭脳と言えるOSをアップデートしてみると、メモリが小さいために、最新型のサクサク動作は無理なものの、特に不自由なく使えます。


 MacBook は、DVDなどを見る時のみ開いていました。やっと今頃になって、iPhone と同じApple製品だという恥ずかしすぎる無知に気づき、改めて使い始めたというのが正直なところです。私には、なかなか有り得ない2つの関連ある知識の「平行線状態」を、久しぶりに起こしていたのです。


 こうした「自分だけ共通点を見出せず、平行なままの知識」は、頻繁に起こるものではありません。この度私は久しぶりに、放置されたままの平行線状態から一本に交わるという思考経験をしました。こんな時、後悔をする間もなくグッド・アイディアが、発生します。取るに足らない失敗を、成功の起爆剤にする大チャンスが訪れたと、考えを180度転換するのです。


 皆さんの中で、私と同じ経験をしたことがある方は、いらっしゃるでしょうか?かなり稀有なことなので、もしかしたら私オリジナルなのかもしれません。もし、経験がある方がいらっしゃるとしたら、あなたは超ラッキーですよ。さしたる失敗もないなら、巡り会っていないと思います。これは、貴重な出会いなのです。


 Apple社の製品に出会ったのは、やはり他にはない魅力があったからです。また、失敗経験や試行錯誤を乗り越えるアイディアを生む面白さについても、改めて学びました。平凡の中に宝あり。アンラッキーを喜ぶ姿勢を維持していこうと、いい年してモチベーションを上げようとしています。失敗は避けるものではなく、求めるものです。そういう時に「発明」が生まれます。以上、1+1=♾️理論(?)でした。


※我ながら、わけのわからぬ思考回路だと思っています。しかし、そんな中から、硬直状態から脱して柔軟な思考に転換し、発明的アイディアが飛び出した経験が山ほどあるのです。


 


 


 

 

015-0864

秋田県由利本荘市大鍬町 117-2

 

学校心理士

​健康経営アドバイザー

髙  橋     

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