- Toru Takahashi
- 2023年5月26日
- 読了時間: 4分

このエッセイは、私の個人的な経験に基づき書きました。ウソっぽく感じることもあるかと思いますが、ウソも誇張もないことを、初めに記しておきたいと思います。世が世ならば、私に決心していたならば、実現していたかもしれなかったことを、いくつか話そうと思います。
なお、私が東京に住んでいたのは、今は昔。
1980年〜1985年ですので、もう既に「時効」は成立したことと受け止めていただきたいと思います。
1980年3月。受けた大学は、全部不合格になりました。当時の不合格「電報」を2つ。
小樽商科大学「ジゴクザカ コロゲオチル」
京都教育大学「フシミノ サケ ノメズ」
大学の立地を的確に表現している「秀作」と言えると思います。大学合格者を実名で新聞報道していた、大らかな時代でした。
ついでに名門「駿台予備学校」まで落ちて、0勝9敗という結果でした。やむなく、早稲田予備校に入学(?)することになりました。友人は、隣の一橋学院(予備校)に入りました。
高田馬場の駅は、残酷そのものでした。改札を出て右に行くのが、早稲田大学生、左に行くのが予備校生の集団でした。東向きだからか、大学生たちは真正面から日差しを受け、輝いて見えました。予備校生たちは、神田川を横目に俯いて歩いていました。この対照的な風景が、目に焼き付いています。
当時、杉並区の荻窪辺りにアパートを借りていました。予備校に行く気もなくなり、「勉強は自分でするもんだ」という勝手な理由を付けて、朝10時開店のパチンコ屋に並んでいました。いざ開店!並んでいた客が、店内になだれ込み、お目当ての台を探します。
当時、親指を使う「手打ち」は廃れ、オートに変わった頃です。天釘と称して、玉が最初に跳ね返る釘によって出る台が決まります。自称パチプロのおじさんに教わって、天釘を見定めて、勝負スタート。これを毎日繰り返すと、台の見極めに熟達して、負けない状態に至るのでした。まあ、セミプロもどきというところ。
ただし、通称「釘師」たちの絶妙なるテクニックによりある程度パチンコ玉が当たると、釘がずれて全く出なくなります。ですから、いわゆる「引き時」が肝心です。通常、¥5,000ぐらいからスタートして、¥8,000あたりでさっさと終わりにします。浮いた¥3,000で飲み食いして元本は確実に残すという具合でした。
そのパチンコ屋で知り合ったのだったか、看板のない怪しい飲み屋で出会ったのか、記憶は定かではありませんが、気がついてみると、私は19歳にして、その近辺を仕切っている任侠組織の親分さんの家に居候していました。「客分」とか何とか言われていて、チンピラ紛いのことは、全く強要されませんでした。
当時、恐怖心などは欠落していました。親分さんは、背中に極彩色の刺青をしていて、いかにもという人物でしたが、私には妙に優しく、奥さんの手料理を常食として食うにも困らずに安楽な生活をしていました。もう時効でしょうから明かしますが、かなり山奥まで出かけて、チャカ(拳銃)を撃つ練習もしました。あの、腕ごとちぎり取られるような衝撃は、忘れられません。そして、ドス(短刀)で人を刺す方法、ショバ代等々のシノギなど、求めずとも業界の基礎基本を学んでいきました。
私の他にチンピラさんたちは大勢いましたが親分さんにとって、私は特別扱いの対象として息子のように可愛がってもらいました。私自身は、これで自分の未来が決まったと、勝手に思っていました。親分さんは、見た目は、怖い雰囲気でしたが、私を優遇してくれるところからもうチンピラに「内定」しているものと、勝手に解釈していました。
初夏の夜、家族の一員のごとく飲み食いしていました。親分が時計を見て「8時か」とつぶやいて、テレビをつけました。その日は、金曜日、選んだ局はTBSでした。リアルタイムで「3年B組 金八先生」の放送を見ました。いつもは、飲んで食って饒舌にしゃべる親分が、なぜか無言でドラマに見入っています。当然、私も同じようにしていました。
番組終了。突然、親分が口を開きました。そして、意外な一言を口にしました。
「トオル。お前、ガッコのセンセーになりな」
私は、思わず「組は?」と問いました。ボスは、一度だけ首を横に振りました。仕草で伝えたいことを察するのが、この世界の掟のようなものなのです。無言は、貫かれました。
その後、居候は終了。酷く怒鳴られそうだったのでお宅にお邪魔することも、二度とありませんでした。浪人生活は終わり、学力を大幅に下げた私は、不本意ながらも大学生になりました。引越しもしました。以降、その組織に関係する人には、一度も会っていません。
親分の言った通り、卒業後、私は教員になっていました。新採用から5年ほどは、「何でこんなことをしているのだろう」と自問することが度々ありました。何か特殊な「おまじない」をかけられた気分は、今も消え去ることなく続いています。親分のおかげでもなく、親分のせいでもなく、自分で決めたことなのに。
ド田舎から出て来たばかり少年が、意外な人に未来を方向づけられるという、不思議な経験をしました。採用試験の面接で「出会いを大切にしていきたい」と話した理由は、実を言うとこんな経験があったからなのです。