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海でのセーリング

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​⭐️noteに続きを載せました。どうぞ、お読みください!​ 雅号は「宇想月」です。

更新日:2023年6月24日


 大学4年生の時、求人を閲覧していて「オリエンタル・ランド」を発見。遊園地の仕事らしく、スルーして次へ。後に知ったのは、この会社が、東京ディズニー・ランドの運営会社だったこと。まあ、その会社に応募する気はなかったものの、今まで、ディズニー・ランド(シー)には、本当に嫌になる程、行きました。

 

 最初に行ったのは、開園前のプレビューでした。スタッフの予行演習の客となって、園内を回るのです。客は、約1000人そこそこ。スリル系は、スペース・マウンテンだけでした。そういう特権に与ったのは、当時の彼女の父親が某大手有名企業の重役だったからです。ちなみに、大相撲の砂被り席や後楽園球場の巨人戦ネット裏にも、ご招待いただきました。その他は、秘密とさせていただきます。ただ、セレブな思いをしたのは確かです。


 さて、脱線から戻ります。開園当時、ディズニー・ランドまで行くためには、今のように舞浜駅すぐというわけにはいきませんでした。当時は、埋立地の浦安が住宅地として売り出されたばかりの頃で、その海側にディズニー・ランドだけが、ポツンと建設されました。当時は、国鉄中央線浦安駅から、送迎バスで15分ほどかかりました。


 駅を出たバスは、まだ区画整理も見えない道を走ります。舞上げられた土煙の中を走っていくと、前方にシンデレラ城の影がうっすらと見えてきます。そこは、他の建物のない場所とは大きなギャップがある夢の世界でした。その後も何度か、ディズニーバスに乗りました。行くたびに、浦安の街が少しずつ発展していく光景を目にしました。昭和50年代後半のことです。


 プレビューでは、客数も限られていましたので、何でも待ち時間ゼロでした。特に気に入ったのが「カリブの海賊」と「ホーンテッド・マンション」でした。その日だけで、合計10回は乗りました。ここを遊園地と呼ぶべきではないと、真面目に思いました。大人も楽しめるレベルに、感激したからです。ここは、日本初の本格的アミューズメント・パークだったのです。


 施設はもちろん、スタッフ(キャストと呼称)の日本人離れした所作も驚きの対象でした。まずは、あの笑顔。そして、客への声かけなど、アメリカナイズされていて、こちらがペコペコするぐらいでした。また、灰皿を探している私に気づいたスタッフが、箒と塵取りを手にして「どこに捨てられても、構いませんよ」と声をかけて、足で揉み消すと、一瞬で回収していきました。そして、モップを持った別のスタッフが、きれいに拭き上げたのです。私たちは、唖然とするばかりでした。


 キャストの大部分は、時給1200円程度のアルバイトだと聞きました。週5日勤務で、月収はせいぜい20万円程度。道路工事の交通整理の人よりも、収入は少ないはずです。ボーナスなどあり得ません。しかし、キャストの人気は高く応募者の途切れはないとか。屋外施設ゆえ、天候の影響をモロに受けて、かなり大変な肉体労働です。ディズニーが好きだけでは、到底務まりません。その秘密は「キャスト」という呼び名にあるようです。


 お客さんは「ゲスト」と呼ばれています。広大なディズニー・リゾートは舞台で、そこでハッピーを届けるのが「キャスト」です。従業員やスタッフと呼ばないのは、夢と魔法の世界を創る演者の1人だという発想だそうです。ゲストにハッピーな心を届け、ゲストからハッピーをいただくという、別世界的なコンセプトが根付いているそうです。


 敷地内には、ディズニー・ユニバーシティと呼ばれる研修施設があり、キャストの在り方を徹底的に学びます。きっと、就活にも多大なメリットがあることでしょう。それぞれの配置場所に独自のコスチュームを身にまとって、キャストの役割を楽しむ。ここが、魅力なのだそうです。バイトでこき使われるとは、全く反対のレディネスで臨めるでしょう。


 学生時代、デートで10回(タダ券で)、サークル仲間と5回ぐらい、東京に遊びにきた弟や妹と3回、従兄弟と2回ほど行きました。そして就職後は、修学旅行で3回、家族旅行で2回行きました。記憶にはありませんが、それ以外でも親類や知人と行った覚えが何回かあり(チケット代を払ってもらっている)、最低30回は行きました。


 後半は、アトラクションを楽しむより、園内の細かい造形を見て楽しみました。また、ディズニー・シー開園後は、数々の本格的ショーを楽しみました。アンティークな建物だけでも、かなりの「こだわり」が感じられ、驚き、感嘆したものです。また、家族5人で行った時、子どもたちの笑顔が弾けた光景は、今も忘れません。なお、修学旅行の時は、携帯電話がなかったので、主に救護室近辺に待機していました。


 ディズニー・リゾートには、もう行くこともないでしょう。しかし、そこでキャストとして過酷な肉体労働を楽しんでいる若者たちのような姿を、ふるさと秋田で見られたらいいなと思います。突き詰めると、たくさんの花が散りばめられたような、若者の働く喜びに満ちた「笑顔」が見たいのです。


 秋田名物は、残念ながら愛想のない「いらっしゃいませえ〜」だと思います。別の言い方をすれば「シャイ」なのでしょうが、それが通用する時代は、既に遥か昔のことなのです。私も同じ秋田人として、自分を客観視すると「無愛想」が服を着て歩いています。ふるさと再生には、箱物や道路拡幅ではなく、生活を楽しんでいる表現としての「キャスト並の笑顔」が必要だと、ごく普通に考えています。


 東日本大地震の年、中学3年生の学年主任になりました。その5月に予定されていた東京方面への修学旅行は、東北新幹線が復旧未定になったため、北海道へ変更されました。学年外から配置された私の目には、意気消沈する生徒たちの姿がありました。学級担任のスタッフたちも、同様な雰囲気でした。


 年度初めのスタッフ会議の席で、自腹で買ってきた本をスタッフに配りました。

福島文ニ郎著『9割がバイトでも、最高のスタッフに育つ、ディズニーの教え方』

 

 これをバイブルとして1年を乗り切ろうと提案し、内容を解説して、学年経営の共通理解を図りました。反応は、人それぞれでした。そして、「学校は生徒が来てこそ学校だ」と宣言しました。最初の学年集会があり、こんな珍妙な呼びかけをしました。

 

「修学旅行でディズニーに行けず、本当に残念でした。そこで皆さんに提案します。ディズニーに行けないのなら、学校をディズニー・ランドにしていく3年生になってやろう!」


 生徒たちのキョトンとした顔を、今も鮮明に覚えています。この学年こそ、不登校ゼロで、卒業式に全員が出席した「奇跡の学年」だったのです。私自身、教員として最高のハッピーをもらうことができました。


 実際は、綺麗ごとを遥かに上回る問題の対応に忙殺される日々の連続で、教師生活で一番苦労した1年間でした。しかし、思い出は美化されるものという解釈を優先して、数々のわだかまりは、水に流したいと思います。ああ、楽しかったなあ。笑顔で終わりたいと思います。


参考文献 組織のリーダーのお勧め









 大学では、「ギター・アンサンブル」というサークルに入っていました。一応は部活動という位置付けで、春と夏には合宿、秋には定期演奏会、そして2ヶ所の地方公演、他大学との協賛での演奏会などを実施していました

 

 部員は、セレブな家に育った人が多く、定期演奏会のチケット割り当てが1人3万円で、日本青年館(国立競技場近)や読売ホール(有楽町駅前)など、分不相応なホールを、1日150万ほどで借りていました。生活のためのアルバイトでの稼ぎがサークル運営のために転換し、たまらず2年生にて退部しました。


 ギターは、13歳から弾き慣れているので、その他大勢ではなく、クラシックでは「ギタロン」というチェロもどきのギター、そしてコントラバス、エレキベースにラテン・パーカッション等々をこなす、何でも屋さんでした。普段はバックバンドの役割を担当していましたが、時には、松岡直也研究のラテン・フュージョンバンドにもなりました。パーカッションのクラベスやクイーカなどを、得意としていました。


 そんなバンドの練習をするには、スタジオをレンタルしないと、世間の迷惑です。同期に、本物のプロ、ザ・スクエア(F1テーマ曲)なんて凄い奴らがいたりして、大学周辺の貸しスタジオは、大盛況の混み具合でした。順番が来て部屋が空くまで待っていなければなりません。


 名前は失念しましたが、宮益坂のスタジオで順番待ち状態の時のことです。1つ前に使う人たちから声がかかりました。ベース担当がいなくて、やってくれる人はいないかとのこと。結局は、私がやることになり、初めての曲のコード進行殴り書きのみで、演奏開始。


 だいたいギター等のチューニングすらできてもいなく、演奏もド下手。コード進行は、簡単そのものでした。一応、付き合いましたが、ガチガチの和製ロックは苦痛でした。時間になるまで付き合い、重ねて「これから一緒にやらないか?」と問われました。


 こうした場合に発する口癖「カタギで生きるので」という慣用句(?)で、辞退しました。演奏をアシストした曲は、これまた妙な名前。このバンドのボーカルが、あんなに有名なヒットメーカーになるなんて思いませんでしたが、卒業の時に"Ya Ya あの時代を忘れない"を肩組んで歌うという結末になりました。


 さて、サークルの部室の向かいには、いつも真っ暗な「原理研」があって、時々角材を持って来た連中と乱闘騒ぎ、隣は落語研究会という並びでした。その廊下の狭いベンチで、ギター弾いて暇つぶしを常としていました。隣の落研は、体育会系もどきで、よくコンクリートの床に正座して、稽古をつけてもらっていました。落研で仲良くなった人は、書き物担当で、親切にも私の芸名を「ギター漫談 高橋とほる」と見事な勘亭流で書いてくれました。


 それを受け取っている時でした。「へえ、色物かい?」と声をかけてくれたのは、なんと三遊亭楽太郎さん(後の故人となる円楽さん)でした。何かやってみるよう言われ、ギターを背負って逆さに弾くイタズラ弾きをやってみると自分の一門に入らないかと言われました。目は、冗談を言っていないぞと語りかけていました。


 こんな誘いが続くなんてと困惑しつつ、いつもの常套句「カタギで生きるので」と答えました。楽太郎さんは落研OBで、後輩たちの面倒を見てくれているのだとか。落語は、日本の伝統芸だからと、ちょっと心揺れましたが、親分の言葉を思い出して、すぐに断念しました。


 東京にノコノコ出てきて、芸能界との接点がこれほどあるのか、驚きました。いろいろいろな経験を短時間でしましたが、サークルを辞めてからは、アルバイト三昧で過ごしました。普通にリクルート活動(就活)して、また三流だと門前払いをたくさん食らい、行き着く先は、親分の行った通りになりました。いい夢を見させてもらったから、それでいいとも思いました。地元では味わえない刺激を受ける。それで良かったと、今も思っています。


 親分の言う通りガッコのセンセーになり、長い時を過ごしました。そういう結論に至るまでいろいろな人の心と触れあって来ました。時々独力で今の自分になったといった幼稚な戯言(たわごと)めいたことを耳にします。そんな考え方は、いつまでも続かないことを思い知るべし。


 人生には、必ず「岐路」があります。それを決断するのは、もちろん自分自身ですが、聞く耳だけは持っていることを、お勧めします。人には「勝ち組」と「負け組」があるなんて「ほざく」奴がいます。そんな考えには、間違いなく一喝をお見舞いします。私なんかでさえ、いろいろな小さい岐路を支えてくれた一言があります。これは大事にすべきか否か?未来を明るくするかどうか、決めるのは、あなたですよ。


 終わりになって、説教じみたことを述べ、大変失礼しました。未来を決めるのは自分自身でも、アシストは途切れることなく、一生してもらえますから、どうぞご安心ください。最後にファッションのみ真似た、中村さんの歌を一部分差し上げます。「ふれあい」より。


♪人は皆、一人では生きてゆけないものだから♪

                   

更新日:2023年6月17日


 仕送り6万円。それが私の親としては、精一杯だったようで、感謝するのみ。しかし、それでは足らず、奨学金を申し込むものの、大学の奨学金のみ受けられることになり、アパートの家賃の半分になりました。


 東京は、都会ならではの、いろいろなことにお金がかかりました。とてもこれでは、暮らしていけませんでした。泣きつく先もないので、授業(計算上、4年間で1ヶ月半出席)など投げ出して、アルバイトに明け暮れました。


 一応、文学部教育学科の学生でしたので、家庭教師をやってみようと思いました。しかし、文系でも東大、早慶、上智やらの学生たちが所属する派遣会社には「三流はダメ」と断られ、結局仕事は得られず。「学徒援護会」に待遇のいいアルバイトのくじ引きに行く始末でした。


 ひょんなことから「早稲田エキストラ同盟」という団体に入り、主としてテレビ局のアルバイトをすることになりました。ただし、不定期でした。主にフジテレビに通いました。まだお台場に社屋はなく新宿区河田町にある頃です。


 通用門から入る時、「山」「川」というような合い言葉を言わないと通してくれませんでした。その合い言葉は.....j。忘れました。廊下は狭く、小柄な女の子を突き飛ばしてしまったこともありました。当時、一世を風靡していた松田聖子でした。転ばしてしまった彼女の手を取って対面した時に、初めてわかりドキドキしたことを覚えています。


 当時人気のあった「夜のヒットスタジオ」の撮影現場に忍び込んだり、食堂に居座っている売れる前の明石家さんまと話してみたりと、テレビ局では当たり前のことながら、芸能人のルツボに居たんだという実感は、あまり感じることは、ありませんでした。


 テレビ局での主な仕事は、文字通りのエキストラでした。雨でプロ野球中継がなくなると、急遽公開番組が組まれます。しかし、急に放送される生番組に観客はいません。久米宏だけ来ても、どうにもなりません。そこで臨時の観客として雇われるわけです。ADの台本動きで、拍手、笑い、驚いた声など、集団で演じます。このノウハウが、後々学校の儀式に応用されました。手が痛くならずに鳴り響く拍手、できますか?神主さん的な、プロ級テクニックです。


 さらに、デビューしたてでファンなど存在しないアイドルの「追っかけ」です。ハッピにハチマキを身に付け、メガホンを口に当ててわざとダミ声で「〜ちゃーん!」と叫ぶのです。これは、渋谷ビデオスタジオで行われました。ここでは、「チェックのマークのチェッカーズでーす!」というバンドも、デビューしていました。ずいぶん訛っているなと、思いました。


 局は違いますが、由美かおると高岡健二による昼メロにも出演。レストランのウエイター役で、セリフは店の入口で「いらっしゃいませ」だけでした。撮影は、朝から夜遅くまでやっていました。私たちエキストラは、カメリハまで何時間も待ち、撮影は2時間で、給与はカメラが回っている時だけ。つまり、1日¥2,000にしかならず、結局はバックレました。


 バイトは、いろいろ試してみました。長く勤めたのは、渋谷センター街に2軒構える、お好み焼き&釜飯「こけし」の厨房でした。ここはハロウィンの時、警察の厳戒態勢になる場所ですが、昔から治安に問題のある場所でした。以前は「チーマー」と呼ばれる連中が闊歩していたそうな。流行っている店も見られず、パルコへの近道に過ぎない、単なる通り道と認識していました。そこで「こけし」は、客が多い方だったと覚えています。


 私の役割は、注文されたお好み焼きのタネ作りと釜飯コンロ8台。キャベツの千切りと小麦粉のドロドロ汁、肉等の具を入れて、卵を片手割りで入れて、焼く前のタネの出来上がり。同時に、釜飯を提供するのは、結構キツい仕事でした。1月で25万超を稼いだ時など、1日中働いた結果ですが、それだけ収入があると保護者連絡されるそうです。全くなかったというのは、あっち筋のチンケなシノギだったと、後から気づきました。


 当時、下北沢に住んでいました。本多劇場、スズナリ劇場があり、若者文化の街でした。安い飲み屋さんで、竹中直人さん、柄本明さんなんかと飲んでいました。全く売れずに困っている話や一緒に芝居やろうぜの話など、生活に困っている役者の卵さんたちとの関わりがありました。竹中さんの「笑い顔を維持しつつ、口からは罵詈雑言」の芸を何度も見ました。


 私のガリガリに痩せてノッポ、訥々とした東北訛りのキャラに「一緒に芝居やらないか?」の声が多くありました。返事はいつも「カタギで生きるので遠慮します」でした。もし、飛び込んでいたらと、時々思います。


 劇場には、何度か足を運びました。貧乏ながら、MUSTのない世界へ憧れたからです。演者の方が、客を人数的に上回っていることばかりでした。こりゃ、ダメだと、立ち去る私を、じっと彼は見ていました。そして、番人のいる広くなかなか開かない遮断機を渡って、現実世界に戻りました。もしかしたら、大吉がやって来たのかもしれません。

 

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秋田県由利本荘市大鍬町 117-2

 

学校心理士

​健康経営アドバイザー

髙  橋     

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