- Toru Takahashi
- 2024年2月24日
- 読了時間: 6分

今は昔。テレビは見るもの、ラジオは聞くもの、新聞や雑誌は読むもの。庶民は、マスコミに対して、あくまでも受動的な姿勢でした。
マスコミに憧れ、大学4年生の就活では、放送局や新聞社、果てはエッチな雑誌社まで、受けまくりの落ちまくったものです。と書くと聞こえがいいですが、正直に書くと「門前払いを喰らった」というのが、正直なところです。
私の所属は、JALPAKと呼ばれる二流、三流グループの大学でしたから、採用ランク外であり、いろいろな面の「コネ」もなかったので、内定をもらうなど、夢のまた夢でした。某教授のゼミで評価されると、某テレビが待っているという情報など知らず、情報の発信者には、なれませんでした。
しかし、誰もがスマホを持っている今は、プライベートな発信が溢れかえっています。そのツールのひとつであるYouTubeには、驚かされます。テレビなど、定時のニュースを見るぐらいであり、新聞購読もやめました。
マスコミから発信される情報が、断片の切り取りであり、世論を煽ることなく、オブラートに包まれた内容ばかりですから、ネット情報に引き込まれるのは、当然です。誰かの発言の責め立てるところだけ残して、前後をなかったこととして切り取るやり口には、うんざりしているのが、実態と言えます。
テレビでは言えないものの、ネット上では言えるというセリフは何度も聞きました。それでも、ネットなりのルールがあるそうで、一応襟を正して制作されているようです。お馴染みのYouTubeは、入眠儀式として見る習慣になっています。まず、検索によって、見たいジャンルの動画を出してみると、何でも検索結果が表示されます。驚くべきことだと思います。
しかし、検索で指定したこと以外も、なぜか表示されます。この検索外れの番組の中に、面白い動画があることが多いです。YouTube歴がたった7年の私には、不思議な世界です。玉石混交と言うに相応しく、ただ一定時間、自分の思いをまくし立てるだけの、勘違い自己満足動画も多いのも事実です。
これは続けて見たいとなれば、登録します。継続しているのは、高級中古輸入車販売会社の「ロペライオ・チャンネル」です。特別な演出はなくても、商品である輸入車の披露だけで興味深い内容を誇っています。私も車だけには贅沢していますが、価格が1桁違う車の紹介を見るのは、実に面白いことです。
時には、勉強の一環として見ることもあります。河合隼雄先生の最終講義など、聴講生の気分で見させていただきました。また、早稲田メンタルクリニックの益田氏による精神医学の小講義も興味深いです。これにより「心=脳」という割り切り方に目から鱗状態になりました。
また、堀江貴文さんの頭脳明晰な点に、感心させられました。彼に関する知識が、あまりにも断片すぎて、恥ずかしく思うことも多々ありました。彼が追究しているのは、物欲、名誉欲ではなく、「おもしろさ」だったのでした。生きることそのものを楽しもうとする姿勢は、真似したいです。
既存のマスコミは、衰退の一途を辿っているとか。我が家も一時期は、朝日と秋田魁の2紙を取っていましたが、今はゼロ。活字中毒すら撤退するのですから、購読数が減少するのは当たり前ということになるでしょうね。
テレビ番組も、人ばかり多いバラエティ番組で、視聴者より内輪ウケ番組が多くなっています。ですから、観るのはWOWOWの映画やグランドスラムということになります。また、アナウンサーの日本語力にも首を傾げることも少なくなく、「〜して参りたい」という怪しい敬語を使うお偉いさんの話なんて何も聞く価値なし。離れるのは、ごく自然なことでしょう。
InstagramやFacebookにも、一応加入しています。どうやら「友だち」が欲しい人が多いようで、ネットによる「文通」が流行しているが如き様相です。または自己顕示欲の発信方法のひとつとも言えます。何だか、人と対面せずに親しくなりたいという考え方が蔓延しているようです。これは、果たして好ましいことなのでしょうか。その良し悪しを云々する気は、もうありません。
うら若い人たちと時間を共有して、そこでの会話を聞く(聞かされる)日々。感じるのは、人としての個性を感じられないことです。ニセ東京弁による会話も聞きづらく、ボキャブラリーも貧相で、一斉に「カワイー!」と地声で騒ぐのが関の山。この「カワイイ」の意味は広く、同意の意思表示として発する言葉のようです。
若者言葉を否定する気持ちは、さらさらありませんが、おそらく年を取っても、発する言葉は、「カワイー!」のだろうと思います。日本語の語彙が乏しいのは、いかがなものか。求められるべき発信力がないのはねえ。
そんな偉そうなことを言っている私の世代に生まれた俗語のひとつが「ダサい」でした。その語源は、同じような語彙レベルから来ています。ファッションも「ハマトラ「ニュートラ」と、個性的とは言い難いものでした。学校の制服と、ほとんど相違点はありませんでした。
さて、このブログを書くツールとなっているスマホの発達は、目を見張るものがあります。高校生からひとりに1台という状況でしょう。私は、iPhone出始めからのユーザーですが、こんな高度なオモチャになるとは、想像すらできませんでした。
昔は、社会人としての信用度にも関わっていた家庭用電話機は、用件の99.999%がセールストークとなり、使うこともありません。いわゆる「家電」がなくても、何の問題もなくなりました。これで、電話による「行動制限」はなくなりました。いいことだと思います。
さて、このネット社会にタイムスリップが起きて、家電と公衆電話だけの世界になったら、どうなるでしょう。ネットのつながらない無人島に、ひとり置き去りになった時、何を持って行くかという質問に、どう答えるでしょうか?そんな質問でもいいでしょう。情報過多社会が一瞬にして、マスコミ受動社会の変貌した時、人は何を考え、行動するのでしょう。
初期的な大混乱はあるにせよ、諦めムードを経た後、人はいろいろな人たちとの出会いを求めて、現実社会を歩み始めることでしょう。そこは思ったより佳き世界だと思います。知らぬが仏と言いますが、余計な情報が入ってこない気楽さを満喫するでしょう。懐かしき駅の伝言板も復活して、今や古語と成り果てた「待ち合わせ」文化がよみがえることでしょう。
どちらの経験も有する者としては、昔の不便さに懐かしさを感じ、豊かな文化を思い出します。例えば、琴線を刺激する昔の歌は、良いものでした。「ダイヤル回して、手を止めた🎵」などの名曲で、電話機のダイヤルは回す時代は何と佳き時代でしょうか。
私たちは、何か大切なものを捨てて、新しさに飛びついています。うなづいてくださる人たちも、少しはいると信じたいです。