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海でのセーリング

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​⭐️noteに続きを載せました。どうぞ、お読みください!​ 雅号は「宇想月」です。

更新日:2023年7月3日


 臨床心理学で、必ず出会う言葉があります。それは、「自己実現」。この言葉に、あなたは何を思い、何を感じるでしょうか?


 単純に言葉を見ると、例えば「〜大学に合格したい」「〜を上達したい」といった目標を達成することと解釈するかと思います。しかし、それは、自己実現の1%の達成にも至らないことです。目に見える事実や結果は、もちろん重大なことなれど、ここは「心」を語る場なのですから。では、「自己実現」という巨大な概念とは、如何なるものなのでしょう。


 マズローという心理学者の定義では、「偽りのない自分の姿で好きなことをして、それが社会貢献につながる状態」が「自己実現」している状態だそうです。どう思いますか?どうも、「偽りのない自分の姿」という言い方は、解釈しづらいところがあると思われます。


 私は、この定義に接したとき、「自由」の定義との共通している考え方だと思いました。私の言い方で言うと「自由とは自分以外の人に一切迷惑をかけずに、何でも自分の好きなことをする状態」と定義します。どうでしょう。似ていませんか。また、マズローの自己実現の考え方の方が、ハイレベルだと感じることでしょうね。


 心理学という学問は、いろいろな学派が存在します。マズローさんのことは、よく知らないので、大それた言い方は控えるものの、深層心理楽とは、かなりの距離を置く人物だと思いました。カウンセリングよりも、学校での学習指導にマッチした考え方だと思います。また、道徳とか倫理社会などの匂いがしてきます。孔子の「七十にして心の欲するところに従いて矩をこえず」という、聖人の境地に通じるものも、あるかと思います。

 

 英語による「自己実現」は、マズローの学説だと、”Self-actualization“という言葉で表現されます。直訳すると自己を現実化すると言い、「自分の欲求を叶える」と捉えて、社会貢献できる人という、肯定的人間像をイメージすることができます


 その欲求は、食べたいというような生きるための生理的欲求からスタートし、安全の欲求、社会的欲求とランクアップしていき、あるべき自分になりたいという「自己実現欲求」を目指すという発達段階が構築されていました。ひねくれた解釈をすると、勝手に「自己満足」という言葉が出てきそうなのは、私だけだとしたなたらば、恥ずかしいです。

 

 このように、マズローの学説は、「自分さえ良ければいい」と考えるのではなく、人間が生まれ育つプロセスを、ストレートに反映している理論なのです。ただ、意外とシンプルな学説だと感じるのは、後に述べるユングの学説が難解過ぎるからだと思われます。


 さて、ユング及びロジャースの2人の学説は大きく異なりますが、「自己実現」の表現は共通していて “Self-realization ”という言葉で呼んでいます。日本語では、自己実現という表現しかないのに、英米語では、違う言い方をするのです。そのため、学者たちは、外国語を使うのであって、単なるカッコつけではないのでした。


 おそらくユングは、スイスの精神医学者なので、これまた異なるドイツ語で表現したのだと思います。ロジャースは、アメリカ人ですから米語を使ったことでしょう。英語とは、基本的に同じですが、「センター」を米語と英語で表現すると、center と centre とスペルが異なります。さて、話が横にそれたので、戻します。


 Self-realization の "realization "は、何と「実現」と訳します。それでは埒が開かないので、"realize"と動詞に直して再び調べてみると、「気づく」「理解する」という意味でした。再び、Self-realization を雑に日本語訳すると、「よくわかってなかった自己をリアルな姿で発見すること」という意味になるでしょう。


 こうして見てくると、マズロー説とユング説での「自己」は、「伸長する」と「発見する」とで、そに捉え方に大きな違いのあることが、おわかりのことでしょう。つまり、ユングの言う自己とは、無意識が大部分を占めているの心の全体像を、総じて呼ぶという考え方なのです。


 また、ユングの学説には、自己に作用する力を持ち、意識上に存在する“自我”が存在していています。難しさに拍車がかかります。例えば、「個性化の過程」“Individuating-process "を突き進んで、自己実現というゴールを目指す心の変化・成長だという、難解極まりない理論が展開されていきます。


 そこには、ペルソナや影やアニマ・アニムスや個人的無意識と集合的無意識など、様々な概念が組んず解れつしていきます。ユングは、山ほどの本を出して、理論の説明を試みています。まあ、それを読み切るには、命を捧げなければいけません。まず、無理と諦めることでしょう。


 この辺で、読んでくださっている皆さんがもう読むのヤメたとならないため、解説本めいた記述については、これぐらいにしようと思います。ここからは私の暴論・極論にお付き合いください。


 私自身の修士論文は、ユングのタイプ論をメインとして「生徒理解」について私なりの主張を提示しました。その研究に基づいて、ポジティブに”個性化の過程“の勝手な解釈した実例について、わかりやすく述べさせていただきたいと思います。


 私の主張は「性格は、変えられる」ということです。例えば、内向型の場合、一般的態度のパーセンテージが、外向よりも多いだけだとお考えいただきたいです。つまり、元来のアンバランスな状態を改変していく可能性があるということです。心のベクトルを自分だけに向けず、外部に向けていくことは、可能なのです。かく言う私が、経験したこととして述べています。


 そんなことは無理だと決めつける方もいらっしゃるかと思います。物事は単純に考えるべきです。「類は友を呼ぶ」の真逆路線で行くのです。私は、内向ー思考ー直観型ですが全く反対の、外向ー感情ー感覚型と、お互いの違いを認めつつ、意図的に行動を共にしたことがあります。その相手は、ある男性の同僚でした。


 はっきり言うならば、当初は不快なことばかりでした。よく考えてから行動する私に対して、まず行動ありきで、後から結果を振り返る彼。気が合うはずは、ありません。しかし、わざと同じ行動をすると、彼の魅力的な点を認め、真似をするまでになる自分が出現したのです。


 いろいろな性格タイプの人と関わることは自分の心の栄養になると感じるようになり、意図的な動きは、ごく自然な動きになっていきました。付き合いの浅い人に、私が内向型であることを話すと必ず「また、ホラ吹いてる」と言われるようになりました。逆に私の母は、根っこを知っているため「人前でよくも話せるようになった」と驚いたものです。それだけ、性格がもたらす行動が変身したと断言します。


 ユングの弟子マイヤーは、性格が変化していく様子を「個性化の過程」として、イラスト風の図を提示しています。意識上にある自我を自らコントロールして、自分の性格の変遷を見ていくことによって、自己を見つけること、すなわち「自己実現」に向けて邁進していく。そんな暴論を、敢えて提示します。


 自分を嫌いになってはいけません。自尊感情を壊すだけです。自分の心には、無限の可能性があることを信じてください。嫌な奴だって、一個の人間です。誰もが、心の所有者で、その色は、人それぞれです。ですから、相手の性格が嫌だというリアクションは、愚かな心象風景によるものだと、思ってほしいのです。


 こんなことを考え、実行していく私に、ユング理論は宝物なのです。私は、人の心の支えになりたいです。自分を肯定するアプローチをしたいです。だから、カウンセラーの資格を取りました。素人考えが、トラウマを作ってしまうからです。一応プロとして、できることをするのが私のライフワークだと心に誓っています。生きづらい人、どうぞ使ってくださいな。


 さて、この記事は、ろくに本を読み返さず私の遠い記憶を基にして記述しているため、実際の専門家の方々からは、間違いを指摘される所も多いかと思います。ユング理論に惹かれて、少しだけ齧った奴が書いた内容だと、どうぞ笑ってお許しください。



更新日:2023年6月20日


 ユング、フロイト、アドラーなどによる深層心理学のキーワードは、無意識という概念です。無意識は、その名の通り、自分の心の中の不明な領域です。心理現象を説明する時科学的で合理的な説明ができない現象から逃げることなく、真正面から立ち向かう時に使われる用語とも言えます。


 例えば、不登校の問題です。学校に行くことの妨げになることを全て排除しても、不登校状態は続く場合、どんな考え方で臨むべきでしょうか。学校に行くように諭しても効果なく、なぜ不登校状態のままなのか、不登校の原因や因果関係を、科学的かつ合理的な説明はできないことが多いです。つまり、この非社会的問題行動の意識面だけを問題にしても、どうにもならないのです。


 何をしても効果ないので、仕方がない。そんな捉え方に陥るのが、関の山。やはり、底知れぬ無意識の領域に目を向ける必要があると思います。そのためのスクール・カウンセラー、すなわち心の専門家だと言えるでしょう。不登校の原因を突き止めるのではなく、生徒自らが自分の心に目を向けるように促すことが、求められることでしょう。それが「臨床」たる所以だと思うのですが、期待できないのが現実です。


 かつて私は、不登校ゼロの学年主任でした。「奇跡の学年」と言われていましたが、突然変異のような見方をされるのは、実に心外極まりないことです。できることは、全てやり尽くして、175人は全員で卒業式へ出席しました。ですから、「学校は、生徒が来てこそ学校だ」をスローガン?として、教師集団がひたむきに取り組んだ成果そのものだったのです。


 これだけの生徒数ですから、いろいろな問題行動は、起きるのが当然でした。それらを根気強く、ひとつひとつ対応していきました。学年全体に、生徒の動きから目を離さないという暗黙の了解がありました。困ったこと、不満なことが起きると、すぐそばに教師がいます。一緒に考えてもらえます。解決しない問題もありましたが、学年の生徒全体に「安心感」のような雰囲気が現れたことを、今でも覚えています。


 ここにいれば、話を聞いてくれるという安心感が生徒全員に広まった時、「集合的無意識」が発生したようです。言い換えれば、学年への「帰属意識」です。我流理論で言わせていただくと、生徒相互の仲がいい悪いといった現象ではなくて、「この学年にいれば大丈夫だ」という安定感が、生徒全員の無意識内に芽生えたと考えることができます。


 なんと高校入試や卒業が迫る時期、日々の欠席者はゼロを続けていきました。良い意味での緊張感が、生徒集団にも教師たちにも、共通認識されていったと、他学年の教師たちにも感じてもらっていたようです。この状況は、合理的な説明ができるような意識的なものではなく、集合的無意識の成立を意識するに至りました。


 さて、「集合的無意識」という、ユングの言葉を使いました。聞き慣れた言葉で言うなら、「島国根性」「地域性」など、人々が知らず知らずのうちに、集合として共通認識するという心の様相です。その規模は、家族や友人関係、都道府県、市町村、町内と、様々です。


 私の体験例を挙げましょう。住んでいる地域ごとに、集合的無意識は違いました。東京都杉並区と世田谷区では、個人主義的な考え方が強いせいか、感じることはできませんでした。そして、新採用で赴任した新潟県長岡市と地元秋田県由利本荘市では、明らかな違いがありました。簡単に言いますと、長岡は湿度が低くカラリとしていて、由利本荘はジメジメしている地域性を感じました。これは、気候の違いにあらず。居住者の、集合的無意識によるものです。


 秋田県にも「県民性」という集合的無意識があります。また、能代〜大館の北地域、横手〜大仙〜湯沢の南地域、秋田市〜由利本荘〜にかほの中央地域があります。更に、合併前の自治体において、町ごとにも異なる集合的無意識が存在するのは、誰もが納得することだと思います。残念ながら、私の住む由利本荘市の集合的無意識は、ガサツ、無責任、融通が利かないといったネガティブな様相で、歪んだ地元主義的な色合いが強いようです。


 ユングの考え方は、そこまでも見透かしています。この文章を書き綴っていて、強く感じることです。個人の無意識ではなく、集合的無意識からコントロールされていることは、よくよく考えてみると、世の中の様々な現象にも多くあります。それが、コミュニティとしてプラスに作用すれば、きっと住みやすい地域になるでしょう。しかし、長い長い年月をかけて形成されたものでとするなら、その改善は困難を極めるでしょう。


 そんな地元意識を変えるために、私たちができそうなことは、あるのでしょうか。率直言わせていただくと、今の世代には無理だと思われます。若い人たちが、生き生きと生活できる環境を形成するため、世代交代が必要です。そんな若者のバイタリティに期待するばかりです。




※河合隼雄先生ならば、豊富な語彙で明快に論理的説明をされると思います。このブログは、理解困難なところが、多々見られたと思います。お詫び申し上げます。ただし、不登校のカウンセリングやコンサルテーションをする場合、何が原因かなどという、ド素人アプローチはしません。どうぞ、お問い合わせ願います。真摯に対応させていただきます。









 

更新日:2023年6月19日


 「コンプレックス」という用語を使ったのは、ユングがトップバッターに当たるのだそうです。私たちも割と気軽に使いますが、下記のような定義で使うことは稀かと思います。


 ユングの定義では、コンプレックスは苦痛、恐怖感、羞恥心など意識には受け入れがたい感情の集まりをいいます。そのため、通常は自我によって抑圧されて意識されることはありません。その意識化は嫌悪感や無力感、罪悪感を伴うために容易ではありません。


 すなわち、劣等感に限定せず、あくまでも自分の知らない、心の闇というべき場所で起きているいうことです。無意識という限りなく広く自分の心でありながら意識が及ばない世界であり、「氷山の一角」の氷山が無限大な状態であることを示します。


 「コンプレックス=劣等感」という認識が世に広まっていますが、言葉のスケールが全く異なります。この言葉を無理に使うとすれば、劣等感コンプレックス、優越感コンプレックスと呼びます。この場合、わざわざコンプレックスという言葉を使う必要などないと思いますが。


 フロイト、ユング、アドラーといった、いわゆる深層心理に目を向けて、客観的に科学技術で及ばぬ心の領域を「無意識」と呼びました。フロイトなら、ヒステリー症状による身体トラブルの治療に、まずは無意識の概念を取り入れました。器官的には正常なのに主な五感が停止した病的状態を治癒させるため、患者のコンプレックスに着目したアプローチをしました。


 「コンプレックス」は、こんな深刻な場面で使われる用語ですが、なぜか私たちの日常語としても使われており、この専門用語を理解している人も多いかと思います。ここで、深層心理学の専門用語を話題にしたら、書き手そのものも行き詰まる可能性が高いので、日常語としての「コンプレックス」に話を留めておこうと思います。私の理解が、実践を伴っていないからという言いわけでもあります。


 コンプレックスについて、来談者中心療法のC.R.ロジャースは、理想自己と現実自己の大きなギャップでコンプレックスが生じるという見解を述べています。この考え方に同意される方は、多いと推察されます。この「理想自己」における捉え方も、人により異なります。


 当然かもしれませんが、個々の理想自己を他者との比較から設定する傾向にあるようです。自分と比べて、どれだけ優れているかという着眼点です。まずは、学力を筆頭にした人と競う能力です。運動会の200m走で、トップがゴールしているのを、私は中間部のカーブから、黙々と走りながら見ています。こんな時「俺ってダメだな」と軽く落ち込みます。毎年のことだったから、結果は走る前からわかっていました。当然、劣等感が生じます。


 悔しい思いをしたり、不機嫌になってしまうことは、あくまでも意識上で起きていることです。もし、それが意識上では処理がどうしようもなく「抑圧」してしまうと、無意識の中に閉じ込めることになります。誰の説だったかは忘れましたが、そうしたマイナス感情が無意識の中でこんがらがってしまい、簡単にはほどけなくなる状態が、その深刻化に伴い、コンプレックスという厄介な塊になると言っていました。


 私は、間違っていることは承知の上で、忘却と無意識を混同する傾向にあるようです。このまま忘れ去ってしまい、二度と思い出したくないという経験に絶対浮き上がらない重たい石でも乗せて、広大な無意識の海に放り投げたいと思ったこともたくさんあります。では、そん私に、何ができるのでしょう。何か役に立つのでしょうか。


 気軽に夢の内容を話してもらうのが、いいかもしれません。抑圧の末、無意識に埋没させた感情は、本人も知りようがありません。しかし抑圧した感情は、夢を通して実際に再現されるかもしれません。ただし、前と同じように出るとは限りません。正反対だったり、場面が大きく異なっていたりすることも多いでしょうが、どこかにヒントが隠されていると思います。


 それを独力で行うのは、やはり無理だと思います。伝える相手と自由気ままに、自分の思いにウソをつかずに話を進める中で、ハタと気づくことがあると思われます。チャンスは、いつ訪れるか、誰にもわかりません。また、話すのも大変なことでしょう。別の活動を取り立てて行うとすれば、絵を描いてみたり、創造的な作業をしてみたりすることもいいでしょう。


 ユングもフロイトも、理論構築のためには、自らが病に取り入れられるという、凄まじい経験をしました。統合失調症やノイローゼなどの苦しい精神世界に、飛び込んだのです。そんな病を乗り越えて、独自の理論体系は形成されました。本人はもとより、家族や友人たちの心労は、想像を絶する状況だったと、思います。


 それはさておき、試しに夢を話しに来ませんか?自分の無意識世界を眺めてみて、自由に思い浮かぶことを話すだけです。空を飛んでみたり、連想の結果、遥か昔のワンシーンにたどり着いてみたりと、現実と関わりあるかどうかは別にして、自由連想の世界に漂ってみるのも一興。ただし、迷信的なことは、お断りします。


 夢は未来に起こることとは、無縁です。もしも「正夢」を見たとすれば、それは単なるシンクロニシティです。夢に出てきたものは、どんなことかという「判断」もしません。単に、夢をカウンセリングの話題にするだけです。しかし、意外な発見があるかもしれません。一緒に楽しんでみませんか。今後、個別カウンセリングのメニューに加えようと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。


015-0864

秋田県由利本荘市大鍬町 117-2

 

学校心理士

​健康経営アドバイザー

髙  橋     

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