- Toru Takahashi
- 2023年6月30日
- 読了時間: 6分
更新日:2023年7月3日

臨床心理学で、必ず出会う言葉があります。それは、「自己実現」。この言葉に、あなたは何を思い、何を感じるでしょうか?
単純に言葉を見ると、例えば「〜大学に合格したい」「〜を上達したい」といった目標を達成することと解釈するかと思います。しかし、それは、自己実現の1%の達成にも至らないことです。目に見える事実や結果は、もちろん重大なことなれど、ここは「心」を語る場なのですから。では、「自己実現」という巨大な概念とは、如何なるものなのでしょう。
マズローという心理学者の定義では、「偽りのない自分の姿で好きなことをして、それが社会貢献につながる状態」が「自己実現」している状態だそうです。どう思いますか?どうも、「偽りのない自分の姿」という言い方は、解釈しづらいところがあると思われます。
私は、この定義に接したとき、「自由」の定義との共通している考え方だと思いました。私の言い方で言うと「自由とは自分以外の人に一切迷惑をかけずに、何でも自分の好きなことをする状態」と定義します。どうでしょう。似ていませんか。また、マズローの自己実現の考え方の方が、ハイレベルだと感じることでしょうね。
心理学という学問は、いろいろな学派が存在します。マズローさんのことは、よく知らないので、大それた言い方は控えるものの、深層心理楽とは、かなりの距離を置く人物だと思いました。カウンセリングよりも、学校での学習指導にマッチした考え方だと思います。また、道徳とか倫理社会などの匂いがしてきます。孔子の「七十にして心の欲するところに従いて矩をこえず」という、聖人の境地に通じるものも、あるかと思います。
英語による「自己実現」は、マズローの学説だと、”Self-actualization“という言葉で表現されます。直訳すると自己を現実化すると言い、「自分の欲求を叶える」と捉えて、社会貢献できる人という、肯定的人間像をイメージすることができます
その欲求は、食べたいというような生きるための生理的欲求からスタートし、安全の欲求、社会的欲求とランクアップしていき、あるべき自分になりたいという「自己実現欲求」を目指すという発達段階が構築されていました。ひねくれた解釈をすると、勝手に「自己満足」という言葉が出てきそうなのは、私だけだとしたなたらば、恥ずかしいです。
このように、マズローの学説は、「自分さえ良ければいい」と考えるのではなく、人間が生まれ育つプロセスを、ストレートに反映している理論なのです。ただ、意外とシンプルな学説だと感じるのは、後に述べるユングの学説が難解過ぎるからだと思われます。
さて、ユング及びロジャースの2人の学説は大きく異なりますが、「自己実現」の表現は共通していて “Self-realization ”という言葉で呼んでいます。日本語では、自己実現という表現しかないのに、英米語では、違う言い方をするのです。そのため、学者たちは、外国語を使うのであって、単なるカッコつけではないのでした。
おそらくユングは、スイスの精神医学者なので、これまた異なるドイツ語で表現したのだと思います。ロジャースは、アメリカ人ですから米語を使ったことでしょう。英語とは、基本的に同じですが、「センター」を米語と英語で表現すると、center と centre とスペルが異なります。さて、話が横にそれたので、戻します。
Self-realization の "realization "は、何と「実現」と訳します。それでは埒が開かないので、"realize"と動詞に直して再び調べてみると、「気づく」「理解する」という意味でした。再び、Self-realization を雑に日本語訳すると、「よくわかってなかった自己をリアルな姿で発見すること」という意味になるでしょう。
こうして見てくると、マズロー説とユング説での「自己」は、「伸長する」と「発見する」とで、そに捉え方に大きな違いのあることが、おわかりのことでしょう。つまり、ユングの言う自己とは、無意識が大部分を占めているの心の全体像を、総じて呼ぶという考え方なのです。
また、ユングの学説には、自己に作用する力を持ち、意識上に存在する“自我”が存在していています。難しさに拍車がかかります。例えば、「個性化の過程」“Individuating-process "を突き進んで、自己実現というゴールを目指す心の変化・成長だという、難解極まりない理論が展開されていきます。
そこには、ペルソナや影やアニマ・アニムスや個人的無意識と集合的無意識など、様々な概念が組んず解れつしていきます。ユングは、山ほどの本を出して、理論の説明を試みています。まあ、それを読み切るには、命を捧げなければいけません。まず、無理と諦めることでしょう。
この辺で、読んでくださっている皆さんがもう読むのヤメたとならないため、解説本めいた記述については、これぐらいにしようと思います。ここからは私の暴論・極論にお付き合いください。
私自身の修士論文は、ユングのタイプ論をメインとして「生徒理解」について私なりの主張を提示しました。その研究に基づいて、ポジティブに”個性化の過程“の勝手な解釈した実例について、わかりやすく述べさせていただきたいと思います。
私の主張は「性格は、変えられる」ということです。例えば、内向型の場合、一般的態度のパーセンテージが、外向よりも多いだけだとお考えいただきたいです。つまり、元来のアンバランスな状態を改変していく可能性があるということです。心のベクトルを自分だけに向けず、外部に向けていくことは、可能なのです。かく言う私が、経験したこととして述べています。
そんなことは無理だと決めつける方もいらっしゃるかと思います。物事は単純に考えるべきです。「類は友を呼ぶ」の真逆路線で行くのです。私は、内向ー思考ー直観型ですが全く反対の、外向ー感情ー感覚型と、お互いの違いを認めつつ、意図的に行動を共にしたことがあります。その相手は、ある男性の同僚でした。
はっきり言うならば、当初は不快なことばかりでした。よく考えてから行動する私に対して、まず行動ありきで、後から結果を振り返る彼。気が合うはずは、ありません。しかし、わざと同じ行動をすると、彼の魅力的な点を認め、真似をするまでになる自分が出現したのです。
いろいろな性格タイプの人と関わることは自分の心の栄養になると感じるようになり、意図的な動きは、ごく自然な動きになっていきました。付き合いの浅い人に、私が内向型であることを話すと必ず「また、ホラ吹いてる」と言われるようになりました。逆に私の母は、根っこを知っているため「人前でよくも話せるようになった」と驚いたものです。それだけ、性格がもたらす行動が変身したと断言します。
ユングの弟子マイヤーは、性格が変化していく様子を「個性化の過程」として、イラスト風の図を提示しています。意識上にある自我を自らコントロールして、自分の性格の変遷を見ていくことによって、自己を見つけること、すなわち「自己実現」に向けて邁進していく。そんな暴論を、敢えて提示します。
自分を嫌いになってはいけません。自尊感情を壊すだけです。自分の心には、無限の可能性があることを信じてください。嫌な奴だって、一個の人間です。誰もが、心の所有者で、その色は、人それぞれです。ですから、相手の性格が嫌だというリアクションは、愚かな心象風景によるものだと、思ってほしいのです。
こんなことを考え、実行していく私に、ユング理論は宝物なのです。私は、人の心の支えになりたいです。自分を肯定するアプローチをしたいです。だから、カウンセラーの資格を取りました。素人考えが、トラウマを作ってしまうからです。一応プロとして、できることをするのが私のライフワークだと心に誓っています。生きづらい人、どうぞ使ってくださいな。
さて、この記事は、ろくに本を読み返さず私の遠い記憶を基にして記述しているため、実際の専門家の方々からは、間違いを指摘される所も多いかと思います。ユング理論に惹かれて、少しだけ齧った奴が書いた内容だと、どうぞ笑ってお許しください。